母性は自動的ではなく、産後うつにも進化的な理由がつけられるかもしれない【暴力の人類史】

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母性についてのエッセイ漫画に『暴力の人類史』との符号を見た

ニュースサイトで「生まれてきた我が子を見ても“母性”が湧かなかったいつの間にか私の心は母親になっていた」という記事を見つけた。

我が子を見ても「母性」が溢れてこなかった―― 娘が生まれて半年、お母さんの心境の変化を描いた漫画に「号泣しました」

元になっているのはツイッターのエッセイ漫画で、子供が生まれたら自動的に母性が湧いて出てくるものだと思っていたが、半年たった今では子供をとても愛おしく思っているという内容だ。

これはピンカー『暴力の人類史』に登場する新生児殺しの進化心理学的な説明とぴったり符合しているなと思った。

新生児殺しは子孫の数を最大限にするための戦略

『暴力の人類史』によると近年までの赤ん坊の10%から15%は生後すぐに殺され、一部の社会では50%にも達していたという。生まれたばかりの子供を殺すなんて非人道的な行為がこれほど行われているのは実際信じられないことだが、生涯育て上げた子供の数を最大限にするという観点から考えると説明がつく。

子供を育てるというのは時間やエネルギーといった資源を大量に使う行動である。生まれたばかりの子供が病弱だったり周囲の環境が厳しく子供の生存が見込めなかった場合は、その子供を捨ててすでにいる子供にリソースを集中させるか状況が好転するのを待つのが戦略的に正しい。つまり新生児殺しは子孫を増やす上での損切り・トリアージ1)医療のキャパシティが制限されている時、患者の重症度に応じて治療の見込みのある/緊急度の高い人間を優先させ、間に合わない人間には医療リソースを投入しないといった選択を行うこと。として人類が一般的に行ってきた行動なのだ。

マーティン・デイリーとマーゴ・ウィルソンはこのトリアージを検証するために民族誌データーベースから無作為に抽出した60の社会を調べたが、子殺しはその大半で記録されており、それらの理由の87%はトリアージ理論に合致したとか。

「子殺しは、心の無慈悲さから来ているのではなく、むしろ生活の無慈悲さから来ているのだ」
スティーブン・ピンカー『暴力の人類史 下巻』幾島幸子・塩原通緒訳 P78

「産後うつ」「ベビーブルー」も子供を生かすか殺すかの選択期間なのではないかという仮説がある

母親と新生児との微笑ましい絆はほとんど反射的なものだと考える傾向がある。しかし実際のところ、それにはかなり大きな心理的障害を乗り越える必要があるとピンカーは言う。

デイリーとウィルソンのほか、人類学者のエドワード・ヘイゲンは産後うつはホルモンバランスが崩れたせいではなく、子供を生かしておくかどうかを決断する時期の感情的なあらわれなのではと提言している。ヘイゲンの検証によると、社会的支援がなかったり、出産が順調に上手くいかなかったり子供が不健康であったり、自分や夫が失業中だったりする女性が産後うつにかかりやすい。また、産後うつとホルモンバランスの崩れの相関関係には緩い結びつきしか見られず、産後うつは機能不全ではなく設計特性であると考えられるという。

人類が豊かな文明社会で暮らすようになったのは人類の歴史からするとつい最近の出来事であり、人間の設計は文明社会に適合していないというのは『ファスト&スロー』など心理学の本でよく語られているテーマだが、産後うつもそうした人間の心の進化的な設計による仕組みのひとつなのかもしれない。

『暴力の人類史』にはこんなことが書いてある。

私はどうやってこの荷物を抱えていけばいいの?――は、大昔から現在にいたるまで、ある重大な選択を迫られた母親にとっては当然の疑問だった。すなわち、いまここで起こる明らかな悲劇を選ぶのか、それとも、あとでもっと大きな悲劇に見舞われるかもしれない危険性を選ぶのか、ということだ。そのうちに状況が御しやすくなり、憂うつな気分が晴れていくと、いつしか赤ん坊が可愛くてたまらなくなり、この世に二人といないすばらしい存在だと思えるようになる――これは多くの女性が報告していることだ。
スティーブン・ピンカー『暴力の人類史 下巻』幾島幸子・塩原通緒訳 P79

この憂うつな状態からの赤ん坊が可愛くてたまらなくなるというのはまさに冒頭であげたエッセイ漫画そのままだ。

ちなみに私の父も「(私のことを)言葉を喋りだしてコミュニケーションが取れ始めるまではかわいいとは思わなかった。『イレイザーヘッド』はリアリズム」などと言っていた。『イレイザーヘッド』がリアリズムかどうかは置いておいて、我が子への感情が移り変わるという実例を見れて興味深かった、と感動とは違う方向でこのエッセイ漫画が面白かったという記事でした。

脚注

脚注
本文へ1医療のキャパシティが制限されている時、患者の重症度に応じて治療の見込みのある/緊急度の高い人間を優先させ、間に合わない人間には医療リソースを投入しないといった選択を行うこと。
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