「危うい美しさ」とか「危険な魅力」という表現がある。『危険な「美学」』を読み始める前はそうした美について書かれた本かと思っていたが、そうではなく、「美」というものが本質的に持つ危険さ、美を追求する人が陥りがちな危うさについて論じられた本だった。
全体が論理的に組み上げられ、簡単な要約ができない。だが非常に面白く興味深い一冊で短い間に何度も読み返してしまった。美学からの美の危険性の警告というのも珍しいし、美学の社会的使命を果たそうとして書かれた本だというのも骨太で素晴らしい。
真(真理)の追求が核爆弾の開発やクローン技術に見られるような危険を伴うこと、また一方的な善の追求が多民族の殲滅にまで繋がる危険な行為であること、それはすでに現代人の常識になっているのに対して、美の追求の危険が指摘されることは少ない。その指摘は、美学の大きな社会的使命だと、私は考えている。津上英輔『危険な「美学」』P31
人間は感性を働かせている間、知性と理性を働かせることができない
本書で説かれる美の危険は美の中に危険な種類のものがあるという話ではない。美を判断する心の働き、感性の働きに根ざす根本的なものだ。
まずこの本の著者は心の働きを知性、理性、感性に分類する。「真善美」とは西洋近代的な考え方における人間の追求すべき三大価値のことだが、正しい認識を通じて真を求める知性、人の意志を善い行為に仕向ける理性、快不快の感情によって美を判定する感性にそれぞれ対応する。
そして美を味わっている時は感性を働かせ続けていることになるが、人間は感性を働かせている間、知性を働かせることができない。そして理性は「これは何々だ」という知性の判断がなければ働かないので、感性が働いている間は理性も停止していることになる。これが著者の指摘する感性の危険だ。美を追求している間は真偽や善悪の判断が停止しているのである。この時あらゆる欺瞞、偽善、詭弁に対して隙だらけになる。
高村光太郎にみる美の追求行為の危険性
この美の追求行為の危険に陥った例として提示されるのが高村光太郎だ。
高村光太郎は1941年「必死の時」という戦争賛美の詩を発表した。美文調で書かれた詩は、アメリカとの開戦へ向かう緊張の時勢によって生き方は研ぎ澄まされ、「必死の境に美はあまねく」と詠っている。
人は死をいそがねど
死は前方より迫る。
死を滅すの道ただ必死あるのみ。
必死は絕體絶命にして
そこに生死を絕つ。
必死は狡智の醜をふみにじって
素朴にして當然なる大道をひらく。
高村光太郎「必死の時」
戦後、光太郎は戦争協力を悔いて、岩手県大田村山口の小屋に自分を流刑して独居生活を送った。その時期に発表された「わが詩をよみて人死に就けり」という詩では自分が書いた詩が若者を死に追いやったと責任を認め、「蒋先生に慙謝す」という詩では日本の侵略行為にうすうす気が付きつつもそれが自然なことのように自己欺瞞していたことを反省している。
自分の犯した過ちについて原因と結果の全体を見て反省した光太郎を「これ以上のものを求めるのは酷」といいつつ、では二度と同じ過ちをせずに済むのだろうかと著者は考えを進める。光太郎にとって芸術行為は「美に生きる」ことだった。そして光太郎にとって美の世界を求めることは知性と理性を停止して社会から目を背ける行為だった。光太郎は鋭い感性で時局をとらえたが、知性と理性による再検討を行わなかった。
生來の離群性は
私を個の鍛冶に専念せしめて、
世上の葛藤にうとからしめた。
政治も経済も社會運動そのものさへも、
影のやうにしかみえなかつた。
高村光太郎『暗愚小伝』
そして戦前の美を追求した生き方を「暗愚」と告白しているにも関わらず、7年間の山口生活を終えた後の講演でも美を至高の価値として捉え、善悪は相対的なものとする考え方は変わっていない。戦争賛美の思想は無いが、必死の生き方が美しいという「必死の時」と同じ考え方を続けている。これは危険な態度だ。美は人に強く訴えかけるために、側や後ろに偽や悪があることに気付きづらくなる。これを”美の幻惑作用”という。美をとらえる感性には自己反省能力が備わっていない。理性と知性による検討が必要なのである。
感性は悪を美にする
さらに感性の危険な働きとして挙げられるのが、あるものを美しいととらえた時、悪かったり負の価値があるはずの側面すらプラスのイメージに転化してしまうという”感性の統合反転作用”だ。
ビターチョコレートのように甘味と苦味がある仕方で結合すると、単なる甘みより深い味わいのある一つの味として「甘苦味」になる。単独では不快であるはずの苦味がむしろ甘味を引き立てる効果を果たした時、甘苦味は苦い「のに」おいしいのではなく、苦い「から」おいしいとなる。負の要素が正に反転しているのだ。
英語や日本語の形容動詞の歴史的意味変遷を調べた著者の調査によると感性の反転作用は必ず負から正に向かう。元々精神錯乱に関係して負の意味を持ったcrazyは「熱狂的な、素晴らしい」という正の意味に転じ、甲乙丙丁と甲に次ぐ第二の劣ったものである「乙」は「乙な」と形容動詞化して「しゃれて気がきいていること」を意味するようになる。
ただ、個人的な考えを挟ませてもらうと、あるものを不快ととらえた場合、そのものに備わっている本来ならプラス要素であるはずの要素も負の要素として反転することもあると思う。例えば「小賢しい」とか「あざとい」というのは、正の要素である「理知的に行動する」「かわいらしい」という要素が不快に感じられた時の表現ではないだろうか1)「あざとい」に関しては近年それこそ反転作用が働いていい意味で使われることも多いが。
この反転作用が政治上悪用されたのが第二次大戦の日本における「散華」だ。本来美しいものではない戦死が桜の散り際と重ねられることで美に変わる。散華という単語そのものは使われていないが、戦死を桜の落花にたとえて美化した歌が「同期の桜」だ。「同期の桜」を共に歌うことで特攻隊員は共に死ぬこと、共に生を全うすることを疑似体験し、死を内面化する。敵艦に自ら突っ込んで死ぬという不合理な状況を兵士に受け入れされる手助けをしたのである。
美と感性の危険性
美と感性それ自体に悪意はない。しかし、美は人を惑わせるし、感性の働きによって美化されたものには反転前に忌むべきものだった痕跡が残っていない。それは大きな欺瞞だが、誰かか特定の人のした行為ではなく、感性という万人共通の心の働きによるものだ。著者は警告する。感性の働きに目を凝らし、知性と理性による監視の目をおろそかにしてはならないと。
美学からの危険性の警告はあまり読んだことがなかったので新鮮、かつ面白かった。なんとなく感覚、それこそ感性の働きのままに使っていた「ヤバい」とか「狂ってる」とかいう本来負の意味を持った褒め言葉の裏にあるロジックを”感性の反転作用”と精緻に解説されるのは気持ちいいほど興味深い。感性には自己反省能力が無いというのはこういうことか。他にもアニメ『風立ちぬ』の中で出てきた「美しい」という言葉の使われ方の読解や、飛行機の美しさという本来一般人にはわかりづらい美が菜穂子という補助線のおかげで視聴者にも理解できるようになっているという分析はなるほどとなった。
美について考える人だけではなく、感性の働きに自覚的ではないすべての人が読むべき一冊だと思う。
脚注
本文へ1 | 「あざとい」に関しては近年それこそ反転作用が働いていい意味で使われることも多いが |
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