【読書】森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』反出生主義に興味があるならまずこれを読めばいいんじゃない?

”反出生主義”が最近流行っている。読んで字の如し、人間は生まれてくるより生まれてこないことの方が望ましいという思想だ。いやそんなの聞いたこともないという人もいるだろうが、デイヴィッド・ベネターという人が書いた『生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪』という本がきっかけで近年注目を集めている。『生まれてこない方が良かった』はAMAZONで見ると商品ページはあるけど表紙の写真がなく、AMAZON本体は取り扱っていないあたり、流通が制限されている危険思想の書といった趣きでよいですね。

森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか』はこのベネターの問いかけに対してこれまでの反出生主義思想の流れをまとめつつ、生を肯定する思想を作り上げようとしている本だ。「生命の哲学」という新しいジャンルの哲学を作り出すのが著者の目的であり、本書はその最初の一歩にすぎないという大きな構想があるようだが、本書だけを読めば反出生主義についての本というのに違いはない。というか書名からして明らかにベネターの『生まれてこない方が良かった』へのアンサーだろうし。

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反出生主義は近年に生まれたものではない

まず述べられるのは「反出生主義は近年に生まれたものではない」ということ。古代から近代に至るまで文学や思想宗教において反出生主義は語られ続けていた。ちなみにこの記事では古代ギリシャ・古代インドから現代まで時間の流れにそってまとめてるけど、本書では全然違うというかむしろ遡った書き方をしてるのでまぁ実際に読んでみてください。

古代ギリシャ、古代インドの反出生主義

古代ギリシアでは誕生否定の思想がたくさん記されていて、代表的なものに詩人テオグニスの『エレゲイア詩集』に収められたこんな断片がある。

地上にある人間にとって何よりもよいこと、それは生まれもせず
 まばゆい陽の光も目にせぬこと。
だが生まれた以上は、できるだけ早く冥府の門を通って、
 うず高く積み重なる土の上に横たわること。
森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』P38

このような詩句は同時代の他の作者のテキストにも数多く登場し、古代ギリシャの知的世界のおける一種の時代精神だったそうだ。

この考え方の影響のもとにあるのが旧約聖書の『コーヘレト書』で、この文書は「日はまた昇る」や「日の下に新しいものは何一つない」など旧約聖書の中でも名言の宝庫とされている知恵文学なのだが、

私は、今なお生きる生者より、すでに死んだ死者たちを讃えよう。いや、その両者よりも、今まで存在しなかった者を幸いと讃えよう。彼は日の下で行なわれる悪しき業を見ることがないのだから。
森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』P40

と誕生否定の思想が明確に表現されている。

古代インドの原始仏教も反出生主義の一つだ。この世で生きることは苦しみであり、死ぬと輪廻して別の世界で生まれまた苦しむことになる。この永遠の苦しみから逃れるためにはあらゆる執着と欲望、愛欲を捨て去って涅槃の境地に至り、二度と生まれてこないようにしなければならない。輪廻転生を前提とした反出生主義がここにある。

ショーペンハウアーの反出生主義

古代インドの反出生主義は原始仏教以前からあり、複数の作者からなるテキスト『ウパニシャッド』にまとめられていたのだが、それに大きな影響を受けた西洋の哲学者がショーペンハウアーだ。時間と空間は主観として認識する側が作り出すもので、世界の側にあって認識される以前のまだ時間も空間も備えていないものを「物自体」と呼んだのがカントだが、ショーペンハウアーは、この物自体には感覚へと素材を送り出す「力Kraft」があり、そこに物自体の「意志Wille」があるという新たな思想を発展させた。その上で植物の成長する力も、結晶が形成される力も、磁力も、万有引力も、この物自体の「意志」が表彰したものだという世界観を提唱し、この「意志」の本質は「生きようとする意志」であるとした。

世界のすべてが「生きようとする意志」に突き動かされているのだというと随分前向きというか生命を賛美するような世界観が展開されるのかと思ったが、ショーペンハウアーは「生きようとする意志」はかならずどこかで挫折する運命にあり、人間だけでなく植物も動物もすべての生命個体は「苦しみLeiden」を余儀なくされていると、どこまでも悲観的な哲学を展開していく。

私たちは幸福になるために生きているという考え方があるが、ショーペンハウアーによれば、それは明らかな虚偽なのであって、まさに苦しみこそが生きる者の真の定めであると言わざるを得ないのだ。生が苦しみと退屈に覆われていること、そして生が結局は死へと帰結することを考えれば、生は「われわれに幸福を感じさせないことをほんらい目的としているような観すら呈している」のである。
さらに言えば、「願いごとはけっして満たされないし、努力は水の泡となるし、希望は無慈悲に運命に踏みつぶされるし、一生は全体として不幸な誤算であるし、おまけに悩みは年齢ごとに多くなって最後に死がくるというのであれば、これはなんとしても悲劇である」けっして祝福され得ないもの、それこそが人生なのである。
(中略)
そしてショーペンハウアーは言う。こんなことならば生まれてこないほうが良かった、と。
森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』P91

そして、正しく世界を見る境地に至った人間がなすべきは「生きようとする意志」を自分自身の内側から消し去って真の「無意志Willenslosigkeit」の状態に至るのが「最高善」である、というのがショーペンハウアーの主張である。正しい認識によって導かれる欲望の断絶という考え方は古代インドの原始仏典にも見られるところである。ショーペンハウアーは著書の中で仏教の修行について熱く語り、仏教修行のあり方に強い共感を寄せている。もっとも実際に無意志になろうと試みたり修行を実践することはなかったが。

ベネターの反出生主義

デイヴィッド・ベネターは2006年に刊行した(邦訳は2017年)『生まれてこないほうが良かった』で誕生否定の思想に論理的な裏付けを与えようとした。論理的に考えると、生まれてきた本人が自分の人生についてどう思うか関係なく、生まれてくることは生まれてこないことより必ず悪い。これがベネターの「誕生害悪論」の主張である。

なぜそんなことになるのか。まず基本的な前提として 「苦痛が存在することは悪い」「快楽が存在しているのは善い」という考えがある。これについては異論を挟む人はほぼいないはずだ。だが苦痛と快楽には非対称性があるとベネターは主張する。それは「苦痛が存在しないことは善い」ことだが、「快楽が存在しないことは悪くはない」ということだ。表にするとこうなる。

ある人が存在するときある人が存在しないとき
(1)苦痛が存在する場合(悪い)(3)苦痛が存在しない場合(善い)
(2)快楽が存在する場合(善い)(4)快楽が存在しない場合(悪くない)

この「快楽が存在しないことは悪くはない」ということを例を上げて説明すると、もし生まれてきたら苦痛に苛まれることが確実な人間と、生まれてきたら快楽に満たされることが確実な人間があるとする。この場合前者に関していえば苦痛に苛まれることが確実な人間を「生み出さない義務」があるように思われるが、快楽に満たされることが確実な人間を「生み出す義務」があるとはけっして言えない。また、離島があったとして、そこに人々が浜で寝転んで昼寝をしているのを見て「ここには気持ちよさを感じている人がいるから善い状況だ」ということは不思議な感覚ではないが、離島が無人島だった場合「ここには気持ちよさを感じている人がいないから悪い状況だ」とは思わないだろう。これがベネターのいう快苦の非対称性だ。

『生まれてこないほうが良かった』によるとベネターは、一般的に存在することのメリットについて考える人は(1)と(2)の差を比較しているがこれは間違っており、表の左右を比べなければならないという。表の(1)と(3)を比較すると存在するより存在しないほうがメリットがある。(2)と(4)を比べると存在するほうにメリットがあると思うだろうが、ベネターは快楽の不在が「悪い」ことになるのは快楽が剥奪された場合に限るので、存在者にとっての快楽の存在は快楽が不在よりも善いが、非存在者の快楽の不在は存在者の快楽の存在より善いということはない、と主張している。そもそも非存在者からは快楽を奪うことはできないのだから非存在者の快楽の不在は悪いことにはならないということだ。つまり総合すると(1)<(3)で(2)=(4)なので存在しないことは存在することよりメリットが大きいということになる。

著者はベネターの論法をきちんと成立していないといいつつ、ベネターの言おうとしていることをクリストフ・フィーエゲの議論から用いて説明している。

ある部屋に喉が乾いている人がいるとする。その人は水を飲んで喉の乾きを癒やす。これは善いことである。ところで、その隣の部屋には人が誰もいない。だからその部屋には水によって癒やされなければならない乾きは存在しない。これも善いことである。この二つを比べるとどちらも同じくらい善いことだと言えるだろう。この論法をさきほどのベネターのケースに当てはめてみよう。喉が渇いた人が水を飲んで癒やされるのが、(ベネターの論法の)人が存在して快楽がある場合に対応する。人が誰もいないのが、(ベネターの論法の)人が存在しないから快楽がない場合に対応する。よってベネターの論法において、人が存在して快楽がある場合も、人が存在しなくて快楽がない場合も、そのふたつは同じくらい善いことになる。
森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』P53

そしてベネターは、この特徴は人類だけでなく他の生物の苦痛にも当てはまるので人間を含むすべての苦痛を感じる生物が存在しない宇宙がもっとも望ましい宇宙であると主張する。しかしこのような宇宙は実現可能だろうか。すべての動物に不妊処置を施した後人類が絶滅したとしても、将来的に植物などが痛みを感じる生物に進化する可能性もある。地球全体を爆破したとしてもどこか他の惑星で痛みを感じる存在が生まれることを食い止めることはできない。「何も存在しなければよかったのに」が反出生主義の純粋な形だが、その願望すら無からの宇宙の自動生成の可能性を排除できず、反出生主義の真の敵は「生成」であると著者は指摘している。

著者はこの「生成」という概念を用いて、「悪の状態」から「善の状態」が生成することは必ずしも「善くない」し、「善の状態」から「悪の状態」が生成することは必ずしも「悪くない」という観点からベネターの議論には穴があると考察している。存在に対する善悪の価値判断と生成に対する善悪の価値判断は別の次元である、というのは考えさせられるものはある。しかし、ニーチェの思想からこの「生成」という概念を重要視する観点をもってきているのだが、この「生成」と「存在」の問題はそれだけで一冊の本になりそうな問題であり、反出生主義を扱うこの本の中では書かれている分量が足りないように思えた。

乱暴に言ってしまえば本書の主張はすでにあることが起こってしまった世界とそれが起こらなかった世界とを比べることはできないというようなものだが、だから出生した方が良かったのか悪かったのかは比較できないと言われて納得する反出生主義者はいないと思う。ただ「存在している者」と「存在していない者」をそもそも比べることができるのか、とか(2)=(4)は本当に正しいのかとかそのあたりは突っ込まれる必要があるかなとは思った。ベネターへの反論とベネターからの再反論をあわせて読みたいところ。

反出生主義と自殺推奨は違う

反出生主義を聞かされた人はしばしば反射的に「だったら今すぐ自殺しろよ」と反論するのだが、「生まれてこないほうがよかった」と「死んでしまったほうがよい」はまったく別物であり、反出生主義は必ずしも自殺を推奨する考え方ではない。

「生まれてこないほうがよかった」という考えを実行するのはすでに生まれている人には不可能だ。だが、「死んでしまったほうがよい」という考え方は自殺によって遂行することができる。つまり自殺によって肯定されるのは「生まれてこないほうがよかった」という考え方ではなく「死んでしまったほうがよい」という考え方なのである。ベネターの場合自説を「反出生主義」ではなく「誕生害悪論」と言っているからよりわかりやすい。誕生が害悪だとしても自殺が有益かどうかはまた別の問題なのである。

ベネターは『生まれてこないほうが良かった』で人生は、存在してしまわない方が良いと言えるほど悪いかもしれないが、存在し続けるのを止めた方が良いと言えるまでは悪くはないかもしれないのであると書いていて、個々人のクオリティオブライフの判定によっては自殺が合理的である場合もあるが、自殺は他の原因による死と同様残された人たちの人生を非常に悪いものにするので、人生は悪いかもしれないが、人生を終えることが自分の家族や友人に与えてしまう影響がどんなものなのかをよくよく考えなければならないとしている。

びっくりするほど常識的なことを言っていて、反出生主義なる悪の思想の提唱者にしては普通じゃないかと驚くかもしれないが、ベネターの反出生主義はこれから生まれてくる人間への加害性を問題視するものなので、自殺が他の人間に与える加害性も同じ観点で考慮するのは当然なのかもしれない。

ショーペンハウアーも、自殺というのはただ現状の自分の置かれている諸条件に満足できないというだけの話であり、「生きようとする意志」を否定した結果なされる行為ではない、と基本的に自殺を評価していない。自殺者は本当は生きたいのだが自分の望むように生きられないから自殺を決行する。しかし本当に断たなければいけないのは本当は生きたいという執着なのだ、という理屈である。自殺者は本当は生きたいと思っているという前提と、だから自殺するべきではないという結論は現代の自殺予防の考え方と同じだがその過程がまったく違っていて面白い。

生を肯定する哲学者・ニーチェ

「神は死んだ」と言ったニーチェが「キリスト教なき時代における生きる意味」、「宗教なき時代における生きる意味」を探り当てようとして最終的にたどり着いたのが、「この世で生きることをまるごと肯定する」という生の全肯定の思想だ。

ニーチェはまず「永遠回帰」という概念を持ち出してくる。

宇宙に存在するすべての力の総量は一定であり、有限である。そしてそれらの力の組み合わせのパターンもまた、果てしなく多いであろうが、有限である。これに対して、時間は無限である。時間の流れに終わりはない、ということは、時間が流れていくうちに果てしなく遠い未来において、宇宙に存在し得る状態のパターンは使い果たされ、過去に存在したのとまったく同じ状態が宇宙に再び出現せざるを得ないことになる。このようにして、いまの宇宙とまったく同じ状態が、将来ふたたび宇宙に訪れるのは確実なのであり、その回帰は永遠に繰り返されるのである。
森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』P220

そしてもし宇宙が永遠回帰しているなら、もし私達がたった一つの瞬間に対してだけでも肯定できたなら、すべての存在に対して肯定したのと同じことになる。なぜなら宇宙は永遠に繰り返すものであるから、その瞬間を用意したすべての過去の出来事を肯定したことでもあり、またその瞬間から起きるであろうすべての未来の出来事に対しても肯定したことになるからである。だから宇宙を全体として肯定するためには、目の前のこの瞬間のふるえるような幸福を本気で肯定し、それが何度繰り返し起きたとしてもかまわないと偽りなく思うだけでよいというのがニーチェの思想だ。そして永遠回帰に加えて、宇宙の運命が何度も何度も繰り返し返ってくること、人生が過去に向かっても未来に向かっても他のあり方がありえないことを肯定していくことを「運命愛」と呼んだ。

子供を生むことについてまつわるあれこれ

では私達が子供をこの世に誕生させることについての善悪はどうなるか。ユダヤ人哲学者ヨーナスは、人類は生物進化の最後に登場した、助けを求める生きとし生けるものを保護する「義務」を持った存在であり、人類が将来世代を存続させるのはいかなる理屈でも覆すことの出来ない義務であると唱えた。正直これを読んだ時の私はその人類中心主義で宗教的なビジョンに反射的に嫌悪感を持ってしまったのだが、子供を作ることを義務とする考え方は広く浸透しているし、いっそ人類の存在は永遠不滅でなければならないから子作りは義務だというほうが清々しいのかもしれない1)ただしこの義務は人類全体としての義務であり個々の人間に出産の義務が課せられるわけではない。

しかし、出産には子供本人の同意を得ていないという「同意不在論」があり、これはなかなか強い理論だ。生まれてきた子供が幸せになったとしてもそれは結果論であって、出産には子供の同意を得られないという原理的問題は常に残り続ける。反出生主義についてネットで軽く調べてみたら以下のような対談が見つかった。

永井(中略) まず第一に、「産む/産まない」というのは「存在させる/存在させない」という問題で、極めて特殊な問題なんですね。普通の問題は、例えば、人を殴って怪我をさせるとか、すでに存在している対象に対して何か変化を引き起こす、という問題です。自分を対象にする場合でも、すでに存在している自分に何らかの変化を起こす、それが善いか悪いか、という問題です。自分がこれから存在するようになることについて、なんて普通は考えませんね。ところが、ここでの問題は、これから存在するようさせる、という問題です。しかも、そのことを自分にじゃなくて他者に引き起こす、他の主体を、いわば他の自分を、存在させ始めてしまう、という問題なんです。これはまったくもって異様な問題です。

 消極的功利主義の議論自体は昔からあったのですが、それをこの「存在させる/させない」という異様な事柄に適応して問題提起をしたのはベネターが人類史上最初です。彼の言っていることが正しいかどうかは別にして、視点の独自性と、しかも言われてみて確かに存在している問題であったという点で、これは非常に優れた問題提起だと思います。
(中略)
川上 実際に、永井先生にも私にも子どもがいますよね。先生は産んでいませんが、私は産みました。この表に相当することがひとりの一生の中で起きようが、人類全般で見たときにこの分布になろうが、とにかく私たちは常に賭けというものをする吞気な性分に生まれていて、出産というのはその最たるものだと思います。私たちが今日この場所へ集まったのも賭けの連続の結果です。たとえば今日は地震が起きないだろう、車にはねられないだろうと、とにかく楽観的なほうに賭けるくらいには鈍くできています。

永井 自分に関しては楽観的なほうに賭けていいんです。それは自由ですし、どういうわけか、普通はそういうふうにできています。でも、自分じゃないのに楽観的なほうに賭けるというのは、実はひどい話なんです。「どうなるかわかりません。でも私は楽観的なほうに賭けるからたぶん大丈夫です」と言って医者が医療行為をするとしたら、それはひどい話で、他者に対してこれは基本的に許されない。許されないはずなのに、出産ではまさにそれが為されている、と言っているんですね。
生まれることは悪いことか? では産むことは? 【特別対談】川上未映子×永井均 反出生主義は可能か〜シオラン、べネター、善百合子

個人の考えを言わせてもらうと、生殖というのは暴力性をもった行為だと結論せざるを得ないのかもしれない。しかし生殖が暴力であり人類存続のための必要悪とするなら(反出生主義はその必要悪を否定して最終的には人類の滅亡を目指す思想なのだが)、国家が警察や軍事などの暴力のコントロールを行うことを肯定するように生殖についてもコントロールを行うことを肯定する理由付けになるかもしれない。個々人が暴力をふるって治安を守ったり問題を解決することを禁止して国家が暴力を召し上げたように、生殖についても国家が召し上げる世界が人工子宮などの技術によって来る可能性もある。その世界では私刑が禁じられるように私生殖も禁じられているし、私刑が野蛮なことだと考えられているように私生殖も野蛮なことだと考えられているのだろう。多分そういうSFもういっぱいあるな……。

リヴカ・ワインバーグは2016年に出した『人生のリスク』で子供を生む時にクリアしなければならない二つの出産許容性原理として以下のような二つの原理を導き出した。

(1)モチベーション制限(Motivation Restriciton)
 子供が生まれたらその子どもを育て、愛し、伸ばしていきたい、という願望と意志によって、出産は動機づけられていなければならない。
(2)出産バランス(Procreative Balance)
 何らかのリスクがある環境下で出産を許容してほしいのならば、あなたが親として子どもに課するそのリスクが、もしあなたが生まれてくる子ども自身だと仮定したときに自分の出生の条件として受け入れたとしても非合理的ではない程度のものであるときにのみ、その出産は許容される(ただし子どもとしてのあなたは生き続けるだろう、と前提する)
森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』P297

当たり前なことを言ってるようだが、将来自分を介護させるため、一人の大人として社会に認められるためなど現代社会で主要な出産理由はダメだと言っているのだからそれなりに厳しい条件である。また著者は、生まれた子供が実際に親に「生まれてこないほうが良かった」と親に問うたときに、親はそれに対応しなければならないという「応答責任原理」をこれに加えて提唱している。

反出生主義について知りたいと思ったらまず読む本として良い一冊

本書ではベネターに限らず歴史上の反出生主義について詳しい説明がなされている。この記事では大幅にバッサリとまとめた古代インド哲学における反出生主義やショーペンハウアーの哲学との繋がりは興味深いし、ニーチェを生を肯定する哲学として解説するくだりはかなり面白かった。ショーペンハウアー哲学や古代インド哲学についての解説だけでも読む価値ありますぜ。

本書が志す誕生肯定の哲学の構想は、ロングフルライフ訴訟――障害を持って生まれた人間が障害に関する情報を親に与えなかった医師を相手取って起こす訴訟――を議論した時からうまれ、こうした反出生主義の考え方を克服することがこれからの哲学や倫理学の基礎になるべきだと考えたことから発案されたという。非常にハードルが高いであろう目標を掲げてシリーズにするという試みは生来ひねくれ者の私としても応援したいし、続巻が出れば読みたい。

インターネットでは反出生主義への批判・反論というのが色々行われているが、そのほとんどはそれでも自分は子供を生むし子供を幸福にすれば問題ないというような反出生主義の理論自体に反論するものではなかったり、じゃあ反出生主義者は死ねよといった中傷だったり、反出生主義者になるようなやつは元から子孫を残せないような負け組だから負け組のたわごとなんて聞く価値なしといった人格否定だったりする。そんな中で本書『生まれてこないほうが良かったのか?』は反出生主義に対してきちんと向き合って理論的に反論しようとしている本である。反出生主義に傾いている人にも、反出生主義をおぞましい反社会的思想と考えている人も、反出生主義についての歴史と理論を知り、考えを深められるという意味で『生まれてこないほうが良かったのか?』は是非オススメしたい。

ベネターの『生まれてこないほうが良かった』は、かなり読みにくい本だけどこっちはこっちで現代の反出生主義のトピックを広く扱っているというか広く問題定義しているので、より突っ込んで知りたいと思う人は読んでおいたほうがいいかなぁ。

脚注

脚注
本文へ1ただしこの義務は人類全体としての義務であり個々の人間に出産の義務が課せられるわけではない。
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