まずタイトルが強いというかこのタイトルだけですでに”勝ってる”感のある一冊。原題は「起き上がって床を担ぎ、歩きなさい」というもの。キリストが歩けない病人に言った言葉から取られている(ヨハネによる福音書5.8)。内容としてはキリスト教圏における障害の書かれようなので聖書からの引用は的確なのだが、聖書に馴染みのない日本語に訳す上でこうしたセンスはすばらしい。一発で本書の取り扱っている問題意識が想像できる。
歩けない主人公が障害を受け入れ、周りの人すべてから受け入れられるという結末の可能性はないし、作家と読者と映画製作者は、足の不自由な人間が歩き、車椅子を捨てるという象徴なしの結末をいまだに認めることができずにいる。フィクションであれノンフィクションであれ「克服する」物語は、身体障害が人々に抱かせている恐れを小さくする重要な役割を持っている。これらの物語は、健常性は正しく望まれ切望されるべきであるとされる世界を保証しているのである。
ロイス・キース『クララは歩かなくてはいけないの?』訳:藤田真利子 P124
本書は少女小説によく見られる障害者と障害の奇跡的治癒というモチーフを取り上げ論じることで、紋切り型の障害者表現への批判、障害への理解の不足、歩けない人にとって自立の道具になっているはずの車椅子が呪縛の象徴として書かれるという倒錯などをそこに指摘する。「車椅子問題」では比較的新しい作品も取り扱われ、自分の腕で漕いで移動できるという描写があるのに教室から教室への移動の時誰かに押してもらわないといけないという描写もあり矛盾しているなど厳しい指摘をしている。つまり車椅子は呪縛であるという様式で書いてるからこのような矛盾が起きるのだろう。
本書で論じられる小説は『ジェイン・エア』『若草物語』『すてきなケティ』『ハイジ』『秘密の花園』『少女ポリアンナ』『ポリアンナの青春』『リバーハウスの虹』といった少女小説の古典的作品だが、20世紀に入ってからの児童文学でも障害の語られ方は根本的には変わっていないという。ちなみに私は不勉強ながら以上の本をほとんど読んでいない。『秘密の花園』はかすかに触れたような記憶はあるが……。とはいえ児童文学などで障害を持った子供の話には色々触れてきたと思う。
社会に訴えかけるために障害者の不幸を声高に言い立てることの功罪
『ポリアンナの青春』に出てくる障害者ジェイミーの扱いは特にひどく、健康的で男らしい少年ジミーと常に対比させられて身体が不自由なことを強調され、文学賞をとって自分で生計を立てられるようになってもかわいそうな人間なんだという点が重点的に描写される。これは作者のポーターが20世紀初めのアメリカにおける貧困の結果を書きたいがためと本書では書かれている。著者の関心とちょっとずれるが、私はここらへんを読んでいて、ミクロな自己実現による幸福とマクロな社会変化による構造改革の対立を考えさせられた。
個人の自己実現や障害を受け入れることで個人的に幸福になれた障害者がいるとしても、マクロな社会変化を訴えるためには障害者や弱者は常に不幸であってもらわねば困るのである。「こんな不幸な人がいるから世の中を変えていかねばならない」と問題提起する上で、「いやでも個人的にはなんとかなってるしなんとも出来てるよ?」と障害者が言ったら運動が盛り上がらないだろう。ポーターも世の中に問題を訴えるためにとにかく不幸でかわいそうな障害者のキャラクターを登場させたのだが、それが障害者=不幸という固定観念の強化につながっているとしたら、こうした障害の取り扱いをすることは世の中にプラスになるのかマイナスになるのかどっちだろう?
文学を読むことで形成される障害への固定観念
著者のロイス・キースはこうした障害を取り扱った作品を読むことで5つの強固な固定観念が作られてしまうと述べている。
- 障害を負うことには、いいことは何もない。
- 障害者の人々は、女性が常に身につけなくてはならない、忍耐、明るさ、何事も精一杯やるなどの従順な行動と同じ性質のものを身につけなくてはならない
- 障害は、悪い行いのため、邪悪な考えのため、十分によい人でないための罰である可能性がある。
- 障害者は罰せられるより哀れみを受けるべき存在ではあるが、決して受け入れられることはない。
- もし治ることを望み、自分自身を十分に愛することができ(ただし、他人を愛するよりも愛してはいけない)、神を信じれば障害は治癒可能である。
そして、障害者がありのままの姿で受け入れられ価値を認められる権利について社会的進歩が積み重ねられてきたにも関わらず、物語の中では精神的成長に伴う奇跡的治癒という筋立てが使い続けられていることを問題視している。それだけ紋切り型が強いということだろう。この紋切り型が生まれたのはそもそも脊髄損傷などを負った人間は長くは生きられなかったり、キリスト教特に旧約聖書の教えだったりの社会背景によって生まれてきたのだが、時代背景が変わっても未だ生き続けているのはある意味フィクションの強さを証明する出来事ではある。
また精神的成長と書いたが、少女たちが果たす「精神的成長」というのも、ビクトリア朝時代の女性は家庭にあって生活を切り盛りするものという価値観を受け入れるというのが成長だったというのも問題だ。これら少女小説の主人公たちは最初は元気いっぱいで大人の言うことに服従せず、いつか立派な一人の人間として世界に羽ばたきたいという願望を持っていながら、その願望をへし折られ、社会から求められた役割をこなすように「成長」する。その成長のきっかけが病気であったり障害であったりするというのだから、これは今の目からすれば自己実現を妨害され家庭に押し込められる少女という悲劇の物語だ。しかし本書で取り扱われるような少女小説では主人公はそのような末路を肯定的に描く。にもかかわらず、現代の読者に残っているのは記憶に残っているのは溌剌とした明るいヒロインの印象だけというのは不思議な話だ。
医学の発展によりすべての障害が治療可能になれば、こうした価値観も「昔の人は大変だったのね。今はそんな事ないけど」で片付くかもしれないがそんな未来はまだまだ来そうにない。
じゃあどうすれば変わっていくのかと考えたら、新しい価値観によって書かれたより優れた作品が出てくることを期待するか、自分で書くかだろうか。本書の著者は作家でもあり、現代的にアップデートした障害者の物語として『違った人生』という作品を車椅子は実用的で役に立つものであり、障害者の主人公にも違った幸せのある人生が待っているという意図で書いたと述べている。ただ、新しい障害者像が生まれたとして、それも新しい紋切り型になり障害者は皆かくあるべしという新しい偏見が生まれるという可能性もある。ここは難しいところだし、たった一つの優れた作品で解決する問題ではないのだろう。新しい物語の力と、そうした作品が発表される土壌になるような社会づくりも必要なのかなと思う。
この記事を書こうと思ったきっかけは以下のツイート。この「あのキャラが障害持ってるの別に意味なかったよね」という感想を言った人も、障害が成長によって治癒するという筋書きを見慣れていて、フィクションにおける障害はそういうもんだという固定観念があったからかもしれない。
何かの映画見たときに障害のあるキャラクターが出て来て、感想で「あのキャラが障害持ってるの別に意味なかったよね」て言われててなかなか目の前が暗くなったな 世の中の人間は属性関係なくみな意味もなく存在している
— 味噌 (@nmngr20) December 27, 2020
タイトルに惹かれて思わず買った本だがとても面白い一冊である。あまり読んでいない少女小説についての知見が得られたという点でも興味深かったのだが、実際に本書で取り上げられていた本を読んで育った読者は本書を読んでどう思うのかも気になる。この記事で興味持った人は読んでみてほしい。
同じような問題を取り扱っていると思われる本には『児童文学のなかの障害者』があるがこちらは未読。