『ラ・マンチャの男』ドン・キホーテは死なない

映画『ラ・マンチャの男』を観た。ミゲル・デ・セルバンテスとドン・キホーテとアロンソ・キハーノを演じ分けるピーター・オトゥールの演技が凄い。同じ役者なんだけどぜんぜん違うように見える。

DVDで観たのだが編集されてTV放送された部分だけ日本語吹き替えがついているのだが重要だろう場面がほとんど吹き替えされておらず、これTV放送の時意味わかったのかなぁなどと思う。3分の1くらいカットされてるって事になるぞ……。

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あらすじ

舞台は中世のスペイン。売れない作家セルバンテスは大道で芝居を演じていたところ、カトリック教会を冒涜したという罪で宗教裁判にかけられるため突然投獄されてしまう。囚人はセルバンテスを「裁判」にかけて所持品を取り上げようとする。彼は自分の脚本を守るため「弁明」としてドン・キホーテの物語を囚人を巻き込んで演じ始める。

ドン・キホーテの二次創作を作るということ

『ドン・キホーテ』の原作をうまいことミュージカルにしてるなって思ったが、映画じゃなくミュージカルを観たほうがここは素直にのめり込めただろうなと思ったところもちらほら。特にアクションシーンが映画としてはわざとらしすぎるように見えた。芝居だと複数人が段取りっぽい動きをしていても素直に飲み込めるんだけど映画だと不自然さが出ると思う。

鏡の騎士が鏡の盾でドン・キホーテに自分の姿を見せ「自分の真実の姿を見ろ。お前は騎士でもなんでも無い」と迫るのは良かったですね。

ドン・キホーテが鏡の騎士に敗れてアロンソ・キハーノであると思い知らされたという終わり方に囚人たちが「そんなラスト気に食わんぞ」と不満を表すのも良い。その終わり方はむしろ原作『ドン・キホーテ』には沿っているんだけどね。そしてその結末をこの映画のセルバンテスは、病床に伏し死に瀕したアロンソ・キハーノのもとにドン・キホーテに助けられた宿屋の娘アルドンサ、――ドン・キホーテに我が姫ダルシネアと呼ばれた女性――がやってきて、最後に再びドン・キホーテとなって死ぬというエンディングに改変した。これ原作のアロンソ・キハーノは本当にただ失意のままに死んでしまうので、映画のこの展開は原作レイプもいいところなんだけどドン・キホーテ、サンチョ、アルドンサの歌も相まって人の胸を打つシーンになっている。

私もすべてのドン・キホーテの二次創作を知っているわけじゃないから断言できないが、だいたいどんな二次創作でもアロンソ・キハーノが騎士物語を呪いながら死ぬという原作のラストは改変していると思う。『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』でもドン・キホーテが受け継がれるラストだったが、この『ラ・マンチャの男』でもドン・キホーテは私たちが受け継いでいくというラストだった。これは『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』が『ラ・マンチャの男』に影響されているというよりも、『ドン・キホーテ』を読んだ読者は原作のラストを受け入れがたいということなのだと思う。

いや『ドン・キホーテ』が近代文学の祖であり、現在の基準でも結構過激なメタフィクションであり、聖書の次に売れたと言われる大ベストセラーであり、出版当時の滑稽本としての読み方からどんどん読み方を変えて現在でも読まれている偉大な文学作品であるというのはわかっているが、それでも現代人の読者のほぼ全ては、愛すべき頭がおかしいおっさんであるドン・キホーテが騎士物語をすべて捨てあんなものは愚かな幻だったと死んでいくエンディングにまずは泣くはずだと思うのだ。だから現代のドン・キホーテの二次創作は「あの二人にずっと旅を続けてほしい」という願いがまず根底にあるのではないだろうか。そして『ラ・マンチャの男』もまたドン・キホーテが死んだことを認めず、俺達がドン・キホーテなのだというメッセージに原作を作り変えている。でもそれが私は好きだ。なぜなら私も『ドン・キホーテ』を読んで泣いた男だからだ。きっと『ラ・マンチャの男』を作った人もアロンソ・キハーノのために、ドン・キホーテのために泣いたのだろう。

原作を読んだ人にも読んでいない人にもオススメです。

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