「文化の盗用」問題は権益をよこせという要求なのかもしれない

「文化の盗用」というニュースが時々話題になる。そしてその度にほとんどの日本人は「それってなにか悪いの?」と疑問に思う。

文化の盗用が問題になった事件をちょっと調べてみると、ほとんどがアメリカで起きている。キム・カーダシアンが補正下着のブランドを「KIMONO」と名付け商標登録して日本で問題になったケースは例外だが、この場合は文化の盗用というより、日本の伝統的な和服を指す言葉であるKIMONOにまったく関係のない補正下着のイメージを付けられる事を日本では問題視していたのであって、もし伝統的な和服を使った商売をアメリカでするのであればむしろ歓迎していたのではないだろうか。

そこで文化の盗用を叫ぶ人間が何を主張したいのか考えていたのだが、もしかしたらこれは権益をよこせという要求と捉えるのが一番いいのかもしれない。

例えば日本では盲人に対してマッサージ師という職業の権益を半独占することを認めている。健常者向けのあん摩マッサージ指圧師養成学校の新設を制限している法律の規定が、憲法が保障する「職業選択の自由」に違反するかどうかが争われた訴訟で、「視覚障害者は今もマッサージ師業に依存しており、規定の必要性は認められる」と判決がくだされたぐらいだ。

マッサージ師養成学校の「新設制限は合憲」 東京地裁判決

文化の盗用を叫ぶ人たちはこう主張したいのかもしれない。「アメリカにおいて黒人文化を金に還元していいのは黒人だけだ。アメリカにおいて日本文化を金に還元していいのは日系人だけだ。日本で健常者向けマッサージ師養成学校が制限されているようにマイノリティはその文化について独占権を有しているのだ」と。

マイノリティに利権をよこせという主張なら彼らの言っている事を「文化の盗用」なんて意味の取れない言葉で主張されるよりまぁまぁ理解できるし、アジア人や黒人がスーツを着たりネクタイをつけることや油絵を書いたりクラシックを演奏したりする事に非難の声が上がらない理由もわかる。権利を主張するのはあくまでマイノリティのものだけ、マジョリティの文化はマイノリティにも開かれていて然るべきというわけだ。

また文化の盗用が主にアメリカで問題になる理由もわかる。様々な人種が混合し、黒人やアジア人など日常的に差別を受けているマイノリティ、ただしある一定以上の発言力を有するほど数が多いマイノリティが存在する社会でないとこうした主張は出てこないだろう。

障害者のために一定の職業が保護されるというのは彼らの生活のためには仕方ないところがある。しかし文化というのはそもそも独占できるものなのだろうか。明確な所有者がいるものなのだろうか。

文化の盗用と寛容──多様性の時代に、クリエーションはどこに向かうのか?

上の記事にこんな文章がある。

90年代とは確かに旧来の文脈からの解放、すなわち日常の縛りから自由になることが、人びとの生活の目標になった時代だった。
だが移行が落ち着いた2010年代には、解体された文脈も再び安定を求める。「オーセンティシティ(本物らしさ)」としてむしろ一定の権威性を人びとが求めるのが現代であり、その際、最も容易に調達可能な権威の源泉が、各地に伝わる土着の伝統文化だった。文化的盗用が注目されるのも、そのような時代の節目であればこそだ。デザイナーを含めて多くの人びとが再び、揺るぎない精神的基盤となる安定した文脈を求め始めている。かくして文化的意匠については、必ずどこかにその第一次所有者が存在するはずだと考える思考様式が広まった。所有者がいるのだから、許可なき利用は盗用なのだ。

ある意味「本物志向」だが、この風潮って本当に正しいのだろうか。文化にとって人間というのはあくまで媒介であり、世代を越えてという縦軸だけでなく、人から人へ地域を越えて横軸でも広がっていくものではないだろうか。そして縦軸の継承にしろ横軸の継承にしろ必ず伝わっていく中で変容していく。

例えば日本のマンガやアニメと言ったサブカルチャーだ。マンガやアニメは海外のアニメ(ディズニーなど)やアメコミなどの影響を受けつつ生まれたものだが、今では日本独自の文化と言えるほど成熟したジャンルになった。しかし、ツイッターやピクシブで検索してみればわかるが、今や中国や韓国、台湾などの絵師が日本人が描いたのと区別できないほど近いスタイルで作品を投稿している。日本で活動する海外出身の漫画家もいるし、中国では日本のマンガ的スタイルを使って独自のコンテンツを作り始めている。マーベルコミックスの『Aero』はアメコミだけど絵柄は完全に日本のアニメのそれだ。

では彼らは文化の盗用として批判されるべきなのだろうか1)これをアメリカで聞いたら活動家は「日本も中国も韓国も台湾もアジアでしょ?馬鹿にしないで!とそれこそアジアの事を馬鹿にした答えが返ってくるかもしれないが。筆者はまったくそうは思わないし、問題視する日本人はほとんどいないだろう。

もちろん「剽窃」はやってはいけないことだ。他人が作ったものを勝手に自分が作ったものですと売り出すのはまさしく盗用だ。だが、自分と違う文化の産物を面白がったり憧れたりして自分もやってみたいと思って表現することを「盗用」とはどうしても思えない。

文化の盗用はリスペクトがないから批判されるという向きもあるが、「リスペクトがあるかないか」もどうしても納得できないものがある。そりゃあ完全にコレ馬鹿にしてんだろって案件はある。しかし他人の心の中を正確に調べる方法なんてないんだからリスペクトしてるかしてないかなんて言いがかりにならざるを得なくない?「リスペクトが無い!」と怒っている人は他人がリスペクトしているかしてないかをどうやって判別しているのだろうか。それこそ「リスペクト判定組織を作ってそこのポストを俺によこせ」というかたちで利権を要求しているのかもしれない。

また、当人が十分リスペクトしていようが、間違った理解をしてしまうこともあるだろうし、むしろそういった間違った理解から新しい文化が生まれたりもするだろう。文化というのは完成されたものが世界が生まれた時から存在するわけではなく、独自解釈や個人のひらめきでどんどん変化し膨れ上がっていくものが面白いのだし、今ある文化ももとをたどれば別の文化圏から借用されて生まれたものだったりする。「文化の一次所有者」という考え方は文化を不当に締め付けるのではないか思う。

脚注

本文へ1これをアメリカで聞いたら活動家は「日本も中国も韓国も台湾もアジアでしょ?馬鹿にしないで!とそれこそアジアの事を馬鹿にした答えが返ってくるかもしれないが
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