個人的な問題意識――近代日本文学と国家との関わり
第二次世界大戦にともなって「日本文学報国会」なんて団体が作られ、多くの文学者が参加させられいやいやながらも1)積極的に参加していた文学者もいるだろうが戦争に協力していたのは、そもそも近代日本文学というのが国家のため、近代化のためにできた存在で大日本帝国と同じようなものだったからではないか。なんてことをなんとなく考えている。
近代日本文学と大日本帝国という国家はいわば双子のようなもので、どちらも日本を近代化するために西洋の文化・制度を移植してきて生まれた根っこのない存在なのではないか。大日本帝国は国家制度の面で日本を作り変えようとしたのに対して、近代日本文学の役目は日本人の内面を近代人にふさわしいものにすることだった。だから当時の文豪はみな欧米の文学を学び日本語に持ち込もうと頑張っていた。
余談だが「日本語ラップ」は日本語でラップをするのは無理、外人のものまねなど言われ続けてきたジャンルだけど、そもそも近代日本は西洋の猿真似から始まった国家だから日本語ラップはむしろ日本らしい文化だしそれを否定することは近代日本から続く現代日本のすべてを否定するようなものではないかと思う。
そんな考えを持っていたので『大佛次郎の「大東亜戦争」』という新書を見てこれは面白そうだと読んでみた。
小川和也『大佛次郎の「大東亜戦争」』
大佛次郎は『鞍馬天狗』で有名な小説家である。といっても私は不勉強にも読んでないのだが。
この本のテーマは、大衆小説は時代や社会を書かなければならないと志向して幕末の鞍馬天狗を題材にしながらも大正デモクラシーの思想を作品に反映させていった作家・大佛次郎だ。
関東大震災後に起きた文学運動で、知識層向けの純文学と大衆向けの講談、この二つの流れを突き合わせて新しい文学を確立しようという「大衆文藝」運動というものがあった。大佛次郎はその流れに乗って、西洋文学の写実的手法を大衆小説に移植した。デビュー作などの最初期の作品は美文調の講談だが、『鞍馬天狗』などの作品は、少なくとも小川が引用してきた部分は現代の小説とほとんど文体が変わらないように見える。
本書では、時代小説作家としてのデビューから、満州に取材に行き若い官吏や開拓移民たちの現場を見て「五族協和」の夢を見た時代、日中戦争、太平洋戦争が終わるまでを大佛の作品・日記の記述と時代の流れを並行して記述していて、時代の流れを作品にどう反映させたのか、作品の元になった体験・思想はなにかと説明している流れはそれなりに面白い。
大佛次郎、文学者の戦争協力について問う本なのかと思って期待して読んでみたがどうもそういう感じではない。ただ単に作品と当時の情勢を並べただけといった感じで筆者の分析・検討が少ないし浅いからだ。
大佛次郎はあくまで自由と民主主義を大事にしていた人間として説明されるし、「五族協和」を夢みた大佛に対して現代の視点からできる批評がないのも気になる。国家が掲げたスローガンにほぼ無批判で乗っかってしまったことはあまり褒められたことではないと思うのだが。
戦後の大佛次郎についてはほとんど書かれておらず、戦後の大佛は保守化する
と凄い安易な言葉で片付けられてしまっている。『大佛次郎の「大東亜戦争」』と題するなら戦前戦中だけじゃなく戦後も大事だと思うのだが。戦時下の体験が戦後の『天皇の世紀』などの作品にどう影響したかはまた別の話として終わっているが、あまり続きは期待できない。
というか文学と国家について考察するなら日本近代文学の場合は天皇制について避けることはできないはずだがこの本ではほとんど触れられない。
題材としては凄い面白いと思うのだが、考察が薄く残念という印象だ。戦争協力の文学について、単なる過ちとして歴史の闇に葬るのではない評価2)もちろん時代を考えたら仕方なかったんだと擁護するだけでもないは必要だと思うが難しいかなあ。とりあえず『鞍馬天狗』ぐらいは読みやすそうだし、読んでおこうと思った。