【感想】『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』ドン・キホーテ役はテリー・ギリアムが最適だった

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端的な感想を述べるのなら

最初に端的な感想を。

「期待していたよりも普通の映画だった」

確かに現実と空想、現代と過去が交錯する映画なのだが……。欧州では絶賛、北米では酷評とキッパリ意見がわかれているらしいが、私としてはどちらでもなく、「ドン・キホーテを原作にしたわりには普通の映画」という結論に落ち着いてしまった。

といってダメな映画とか嫌いな映画とかそういうわけではない。キャストの演技はすごく良かったし、美術も衣装も良かった。ドン・キホーテの痛々しさ、そしてこの空想が覚めてほしくないという切実感はちゃんとあった。その意味で”もっとせめてほしかった”といったところだろうか。

あらすじ

テリー・ギリアムのドン・キホーテロゴ

主人公トビーはスランプ気味のCM監督。スペインで新作映像を撮影しているが仕事はうまく進まない。スタッフを集めて夕食を取っている最中にジプシーの売り子から差し出されたDVD。それはトビーが監督した映画『ドン・キホーテを殺した男』だった。

学生時代のトビーはスペインのとある村を訪れ、靴職人のハビエルをドン・キホーテに起用、村一番の美少女アンジェリカを口説き落として出演してもらい、卒業制作の映画を制作した。素人の起用の斬新さもあって栄誉ある賞を受け取ったトビーはハリウッドを目指したが、今では夢破れてCM監督をやっている。

撮影した”夢の村”が近くにあると知ったトビーは翌日バイクで10年ぶりに村を訪れたが、一見昔のままの村は映画のせいで変わっていた。アンジェリカは女優になる夢を持って村を飛び出し消息不明、サンチョ・パンサ役の村人は亡くなり、ドン・キホーテを演じたハビエルは自分をドン・キホーテだと信じ込んでいた。

ハビエルは村を訪れたトビーを「サンチョ・パンサが戻ってきた」と思い込み、無理やりトビーを引き連れて騎士の冒険に旅立とうとする。

【感想】テリー・ギリアムがドン・キホーテを演じたらよかったのでは?

この映画のテーマって「映画が人生を狂わす」「それでも人間は幻想の中に生きずにはいられない」ってことでしょ? 『ドン・キホーテに殺された男』に人生を狂わされた男ハビエルはドン・キホーテの映画化に30年近く執着したテリー・ギリアムなんだろうから、そのままテリー・ギリアムがドン・キホーテを演じたらよかったのでは? それが映画を観終わった後最初に思った感想だ。

それも「靴職人のハビエル」を演じるのでなくテリー・ギリアムが映画監督テリー・ギリアムを演じれば原作のメタ要素も拾うことができただろう。

どういう意味かわからない? つまり「ドン・キホーテの映画を作ろうとするも頓挫続きでおかしくなって自分をドン・キホーテと思い込んだ映画監督のテリー・ギリアム役をテリー・ギリアムが演じればよかったのでは?」ってことです。

そんなメタ要素いらない!って思うかもしれないけど、いやいやだってメタ要素がなければドン・キホーテじゃないんですよ。

ドン・キホーテ原作の滅茶苦茶さ

そもそもドン・キホーテの原作自体、アラビア人にしてラ・マンチャ生まれの学者シーデ・ハメーテ・ベネンヘーリの書いた史料をセルバンテスが翻訳したものというメタ構造を内包した設定になっており、やれ決闘シーンが始まるかと思いきや「ここから先は伝記の続きがない」と話がぶった切られ、セルバンテスがどうやって続きが書いてある資料を発掘したかという下りが挟まったのち、続きが始まるといった話がある。

さらにドン・キホーテの原作は前編と後編に分かれているのだが、後編になると前編の内容を記した伝記が作品世界中で広まっているという設定になり、ドン・キホーテやサンチョがあの書かれ方は良かった、あの話を挟むのは良くなかったなどと前編の講評を始めたり、伝記のファンである公爵夫妻がドン・キホーテとサンチョをからかうために歓待しつついたずらを仕掛けたりする。

後編の執筆中に別の作者が出した二次創作の続編を作中でDisったり、二次創作のシナリオは前編で「この後ドン・キホーテはサラゴーサの武芸大会に出ます」と書かれた内容に基づいたものであるにも関わらず、それは偽物だから本物である我々はサラゴーサなどには行かないバルセロナに行くと決めるなど17世紀に書かれたものとは思えないほど滅茶苦茶自由に現実とフィクションの境を行き来するのである。

テリーギリアムが主演をすることで原作のメタ構造を再現できたのでは?

テリー・ギリアムがドン・キホーテを演じることで、作中人物がすでに広く作品のことを知っているという構造を再現することができたのではないか? 現実世界と映画内現実世界を地続きにすることで、現実と空想の境界線をもっと強くゆさぶることができたのではないだろうか。それぐらいやっても壊れないほどの強靭さがドン・キホーテの原作にはある。むしろドン・キホーテの原作を読んだ時感じる滑稽さ、痛々しさ、それでもこの狂気から目覚めてほしくないという気持ちはきちんとまとまった映画に収めてほしくないんですよ。もっとぐいぐいせめてきてほしい。

元の脚本からは大幅に書き換えなければいけないが、『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』内でも『ロスト・イン・ラ・マンチャ』を参照するようなシーン(映画撮影の失敗など)はあったし、ドン・キホーテにテリー・ギリアムが感情移入しているのは(パンフのメッセージでも言ってるから)確かだし、どうせ観客もこの映画のドン・キホーテをテリー・ギリアムと重ねて観ているのだからさらに踏み込んだメタ表現をしたらもっと面白かっただろう。そういう感想を私は持った。

原作と比較

ここからは原作と比較するためネタバレがあります。

観ていて原作の要素を拾っているなーと感じたシーンがいくつかあった。はっきりとこれはここってところだけ書き残しておく。映画観て原作に興味を持つ方がいたら参考にしてください。

ハビエルが警察に捕まったトビーと怪しげなジプシーを解放するところ

ここは舞台を現代に変えたからわかりにくくなっているが、『ロスト・イン・ラ・マンチャ』で撮影されている元のシーンを見れば原作で移送中の囚人を(力づくで)解放した場面が元になっていると思われる。

ハビエルがワインの革袋を斬りつけるところ

原作では小説(作品内小説)の朗読がおわり際にいきなりサンチョが「わしの主人が怪物と戦ってる!巨人の頭を切り落とした!」と飛び出してきて、寝ぼけたドン・キホーテがワイン袋の革袋を何度も斬りつけたことがわかるという唐突なギャグシーンなのだが、映画ではきちんとした幻影をみるシーンになっている。

トビーが金貨を手に入れるところ

映画では結果鉄くずだったが、原作ではドン・キホーテとサンチョは百枚以上の金貨が詰まった革袋を拾い、新たな冒険のきっかけとなる。

酒場の親父たちが騎士の扮装をしてハビエルを連れ戻そうとしたくだり

原作でドン・キホーテを連れ戻すために、サンソン・カラスコというドン・キホーテと同郷の若者が「鏡の騎士」に扮して決闘を挑むシーンが元。決闘で敗れた者は勝った者の言うことを聞くという約束を取り付け、村に戻させるつもりだったが槍使いに手こずって逆に打ち負かされてしまった。ドン・キホーテを決闘で打ち負かしたと自称して挑発するのも原作通り。

ハビエルが木馬に乗せられ座興として笑いものにされるくだり

映画ではウォッカ王のための座興として用意された見世物だが、原作ではドン・キホーテファンの公爵夫妻によるイタズラ。呪いを解くために木馬に乗せられるのは同じだが、原作ではサンチョも一緒に乗せられる。

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