このブログについて”何故作品を摂取するのか”

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何故作品を摂取するのか

何故本を読んだり映画を見たりゲームをしたりするのか。人によって違うだろうが、私の場合究極的な目的は「世界を変える不可逆的な体験がしたい」からそれらの行為を行っている。もちろんそうじゃないから作品がクソだとはならないが。

不可逆的な体験とはなにか。世界の真理に触れたような、作品に接する前と後では世界の見え方が変わってくるような、そんな体験だ。

私が思い出せる最古の不可逆的な体験は小学生の頃「みにくいアヒルの子の定理」を読んだ時だ。

みにくいアヒルの子の定理

私の両親は画家であり現代美術をやっていたので、哲学書やら思想書がまわりに転がっている環境で育った。画家と哲学・思想の何が関係があるの? とお思いになるかもしれない。現代美術というジャンルは「芸術でできることは何か?」「どこまでやっても絵画として成立するのか?」などのテーマを突き詰め続ける界隈だ。そのため既存の美術はどのように成立してきたのかということを踏まえて作品を作らなければいけない。だから美術史を把握し、同時期の作家の根底に流れている思想を研究した上で自分の回答を出さなければいけないのでお勉強が必要なのである。

 子どもというのはだいたい背伸びをしたがる生き物なので、私も背伸びしてそうした本を読んでいた。理解はほとんどしていなかったが。そんなある日、初心者向けの解説書のような本で”みにくいアヒルの子の定理”が説明されていたのを読んだ。

「アヒルの子と白鳥の子は2羽のアヒルの子が似ているのと同程度に似ている。これは数学的に証明できる」というのがみにくいアヒルの子定理だ。アヒルの子と白鳥の子はくちばしや羽の形が異なるが、アヒルの子同士でもくちばしや羽の形が完全に同じになることはない。2つのものの違いを比較する時には両者の相違点を数えることになるが、まったくフラットな状態で観測すればどんなものを比較しても同じだけの相違点を見つけることができる。故にすべての分類は恣意的なものである。といったような説明を読んだ。

子供だった自分はこの内容を読んで大いに動揺した後、納得させられてしまった。その時確かに世界の見え方が変わったような感覚に陥った。不可逆的な体験をした初めての事だったと思う。

ビビンパ

中学生の時清水義範の『ビビンパ』を読んだ時も同じような体験をした。

『ビビンパ』は焼肉屋に来た家族の会話をそのまま写し取ったような短編小説である。本当にそこらの焼肉屋でありそうな会話でストーリーなど全く無いような話なのだが、中学生の自分はそれを震えるほど面白く感じたのだ。

何故そこまで面白く感じたのか、それは小説にストーリーは必ずしも必要がないと気付かされたからだと今では思っている。ただ人間の日常会話を小説に再現するだけでも、それが真に迫っていればそれだけで面白いのだという事を『ビビンパ』は教えてくれた。まさに「目から鱗が落ちる」ような、小説についての考え方が変わる不可逆的な体験だった。

逆転裁判

逆転裁判もまた自分にとってエポックなゲームだった。キャラクター、テキストの面白さもさる事ながらゲームシステムに衝撃を受けた。証言を”ゆさぶる”、証拠を”つきつける”の2つのアクションで、相手の嘘を暴くという複雑な事をプレイヤーに考えさせるのだから見事としか言いようがない。考えてみればアドベンチャーゲームの「特定の場所で特定のアイテムを使う」の派生系とも言えるのだが、こんなやり方があるんだと衝撃を受けた。

当ブログの筆者の重点

当ブログでは本や映画、ゲームなどについて書いているが、不可逆的な体験をさせてくれるかというところに一番の評価点をおいている。もちろんストーリーの面白さやビジュアルの凄さを軽視するつもりもない。画期的なストーリーやビジュアルの凄まじさがこの媒体でここまで表現できるのかと不可逆的な体験につながる場合もある。画期的なものを狙って作られたものがクリエーターの自己満足に終わることも多い。

自分の紹介した作品が読者の不可逆的な体験に繋がってくれたら嬉しいし、「これは凄いですよ」と教えてくれたら嬉しい。

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