宮崎駿の新作『君たちはどう生きるか』が駄作でもいい理由と『風立ちぬ』における夢と人間讃歌

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『君たちはどう生きるか』は果たして成功するのだろうか?

来るべき2023年7月14日に宮崎駿の最新作『君たちはどう生きるか』がついに公開される。

宣伝をあえてしないという奇策に出た今作はポスター一枚のビジュアルしか公開されておらず、どんな話なのかどんなキャラが出てくるのかわからない。パンフレットすら初日には売らないらしい。本当に公開されるという実感すらない。

君たちはどう生きるかポスター

まず一般的に知られてないこととして、タイトルの「君たちはどう生きるか」というのは小説のタイトルから借りてきただけで原作の映画化でもなんでもない。これを「検索妨害だ」と批判する人もいたが、宮崎駿は調べ物は足を使え、ネットなぞクソだと切り捨てるだろう。

内容は冒険活劇ファンタジーになるらしいが、「君たちはどう生きるか」という直球説教タイトルを見に行く人がいるのだろうか? 私は初日に行く予定だけれども。

鈴木敏夫プロデューサーがカンヤダなる女性に入れ込んでいるという悪いゴシップも流れてきている。新作のヒロインはカンヤダをモデルにさせたとかなんとか……。

「カンヤダ氏は、ジブリファンの間ではよく知られた存在なんですよ。鈴木氏は2018年に『南の国のカンヤダ』という“ノンフィクション小説”を出しています。そのなかで、エレベーターで偶然、出会ったカンヤダ氏のことを、若いころに好きだった女優の大楠道代に似ていると、ベタ惚れ。そこから彼女に入れ込んでいく様子を、赤裸々に語っています。鈴木氏としては、ブレずに“いま”を生きる彼女のなかに“宮崎駿”を見出したということだそうです。
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あまりに情報がないため、ネットでは映画が始まるとフルCGの宮崎駿が出てきて90分説教をされるなどと噂されている。そんな映画が始まったら観客は劇場で気絶しちゃうよ。

でも、そんなことはどうでもいいのである。『君たちはどう生きるか』が仮に駄作だとしても興行成績が大ゴケしたとしても宮崎駿のフィルモグラフィーにはまったく傷はつかない。何故ならば宮崎駿は『風立ちぬ』を作ったからである。

夢(エゴ)に取り憑かれた人間を描いた『風立ちぬ』

風立ちぬポスター

主人公の堀越二郎は礼儀正しく、育ちもよく、頭もいい。しかしそれはそれとして夢に取り憑かれている。それは飛行機だ。美しい飛行機を作りたい。彼の人生はすべてそのために捧げられている。彼は三菱で軍用機の設計に携わっているが、国の発展とか国防とか戦争とかには興味がない。あくまで美しい飛行機を作るのが二郎の目標である。劇中「機関銃さえ載せなければなんとかなるんだけどね」と二郎が言って周囲が冗談だと思って大笑いするシーンがあるが、彼にとっては大真面目なのだ。

この夢を追う二郎は確実に宮崎駿本人を重ね合わせて描写されている。二郎にとっての美しい飛行機は宮崎駿にとってアニメだ。二郎が美しい飛行機を作りたいのも宮崎駿がアニメを作りたいのも作りたいから作るのであり、それはエゴだ。夢とはエゴなのだ。

二郎の妻になる里見菜穂子も愛というエゴを貫く、初恋の相手である二郎と結婚し、病気をうつす可能性もあるのにサナトリウムを抜け出して彼と一緒の結婚生活を送る。そして二郎が美しい飛行機を完成させるのと同時に「女性として綺麗な部分だけ、愛する人に見てもらいたかった」からサナトリウムに帰る。治療を放棄してサナトリウムを出たのも綺麗な部分だけ見せたかったから勝手に帰るのも一つのエゴだ。『風立ちぬ』の二郎菜穂子夫婦はお互いエゴを貫き通した二人であり、二郎が菜穂子の前でタバコを吸うのもお互い自分のやりたいことをやりたいようにし、それに二人は納得しているという描写である。

そして戦争は終わり、日本は負け、二郎はカプローニに会える夢の世界で菜穂子に再開する。菜穂子は二郎に言う。「生きて」と。

「生きて」というセリフがジブリで一番いいセリフ

私はジブリのすべてのセリフの中でこの「生きて」というセリフが一番好きだ。映画の初期では「来て」というセリフだったそうだが、宮崎駿と二郎役の庵野秀明で相当話し合いをして悩んだ結果「生きて」というセリフになったらしい。素晴らしい判断だったと思う。もし「来て」というセリフのままだったならば『風立ちぬ』は普通の映画になってしまっていたし、自分が映画が終わった後涙で席が立てないこともなかっただろう。

何故「来て」では駄目で「生きて」というセリフが良いのか。それは「生きて」というセリフには理屈がないからであり、「来て」というセリフの方が自然だからである。

意味がわからない人がいるかもしれないから説明するが、あの二郎とカプローニが話している場面はいわば三途の川の手前、死後の世界だ。鈴木プロデューサーは「煉獄にいる」と言っているらしい。そして物語の流れ・力学の上からでは「来て」、つまり二郎も死ぬという方が理屈にあっている。

二郎の設計した「九試単戦」
二郎が設計した九試単座戦闘機。
ファインモールド

何故なら二郎はすでに「終わりはズタズタ」の創造的時間を使い切った、九試単座戦闘機という彼の理想の美しい飛行機も完成させた、彼の作った飛行機は一機も帰ってこず国は敗れた、愛する妻も失った、と全てやりきってしまっているからである。物語上妻のいる死後の世界に行くのがむしろ綺麗でふさわしい(念のため言っておくが、これは『風立ちぬ』という物語上の堀越二郎の話をしている。普通の人間の理解力があれば言わずもがなだが念のため)。そして菜穂子は生前に二郎を「来て」と自分の床に誘っており、再び「来て」と二郎を導くのは自然な話だ。

だが、『風立ちぬ』では菜穂子は「生きて」という。ここには何の理屈もない。理屈があるのが説教で、理屈がないのがメッセージだ。この「生きて」というセリフはあらゆる人間に対するメッセージなのである。

創造的時間を使い切っても、作った飛行機はすべて返ってこなくても、愛する妻を失っても、己の夢(エゴ)を果たしても、それでも生きて欲しいのだ、生きてもいいのだと言うのが菜穂子のセリフだ。これは人生に対する何の理屈もない無条件の全面的肯定だ。これほどまでに心を動かされる瞬間がジブリの映画にあっただろうか?

もちろんこれは見方を変えればとんでもなく気持ち悪い話でもある。堀越二郎=宮崎駿という視点にたつと、多数のアニメを作ってきて、一定の成果を挙げているが満足できず、そして老境にたちいずれ死を迎える自分を美少女キャラ(菜穂子はジブリ作品で一番美しくエロい女性キャラだと思う)に全肯定させているのだから。

しかしその手前勝手な自己肯定は、エゴを、夢に取り憑かれた人間すべてをも同時に肯定することに繋がっている。そして、人間には多かれ少なかれエゴがあり、そのために生きているようなものだと思う。つまりあらゆる人間に対する肯定なのだ。

ジブリ作品では自然は良きものであり人間はそれを汚染する悪いものであるというテーマお説教が繰り返し描かれた。『崖の上のポニョ』に至っては無垢な子供が人間世界を滅ぼすとんでもない話だ。だが、宮崎駿は『風立ちぬ』に至って理屈説教を捨て人間社会嫌悪を超え「エゴの果てにすべてを失おうと、それでも良い」という人間讃歌に至ったのだ。

だから『風立ちぬ』で引退して終わっていれば最高に綺麗な幕引きだ。しかし宮崎駿はそれでも引退を撤回して『君たちはどう生きるか』を作り始めた。それもまた良いのだ。ここまで読んだ人は、『君たちはどう生きるか』が大ゴケしても駄作だとしても宮崎駿のフィルモグラフィーをなんら汚すものではないということがわかっていると思う。

人生の創造的時間を使い切っても、夢を果たしても、美しいものを完成させても、それでも生きていいのだから。

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