シンポジウム「古典は本当に必要なのか」を見に行ってきた
先日行われたシンポジウム「古典は本当に必要なのか」を見に行ってきた。古文教育について否定派と肯定派がガチで議論するという面白そうなイベントに野次馬感覚で見に行ったわけだが、会場は研究者や実際の教育現場に立つ人が多く私のような不真面目な態度で来た人は少なかったと思われる。ただ肯定派が多かったのが議論の場としては残念だったかな。こういう議論はそれぞれの意見が活発に飛び交う中で共通の論点や言葉が見つかっていったりするものだから。
なんかネット上で「古典は本当に必要なのか」をそのまま字義どおりに受け取ってる人もいるが、高校で古文漢文の授業をやる意味があるのか、というのが主な議論の焦点で、日本にある古文書は全部燃やしてしまえとかそういう話をしていたわけではない。会場の否定派パネリストも別に古典が存在すること自体を否定している人はいなかった。
パネリストの発表・会場での議論
会場での発表、質疑応答はアーカイブとしてYoutubeに残っているのでそれを見ればいいが、そんな長い時間見てられないよって人のために簡単にまとめておく。
否定派の発表
- 古典より優先度の高い教育科目がある。
- 国際競争に必要な世界標準の知識でない。
- 論理国語(企画書、発表、議論)、英語、数学がより大事。
- 古典が年功序列や男女差別など悪い儒教的マインドを刷り込むツールになっている。
- 文化として古典を習わせるなら現代語訳で学ばせればいいのでは?
- 古文でないとわからない微妙なニュアンスを必要とする人は限られる。
- 古文を勉強したとしても平安時代の人間が書いたものを本当に理解できるのか?
- 意味がありそうな哲学的部分が現代語訳して社会科の授業に。
- 国語にはリテラシーと芸術としての側面がある。
- 正しい日本語の読み書き能力は今の教育では不十分である。
- 古文をどうしてもやりたいという学生のためには選択の芸術科目に入れろ。
否定派の猿倉先生は高校数学で行列を教えなくなった事にえらく憤ってらっしゃった。文系教育について必要不必要というだけでなく、もっと大きな問題、日本の教育全体について不信感があるようでした。
確かに国がどんなビジョンで教育制度を構築し、どんな基準でその効果を図っているかは古典の意義以外でも問題になりそう。猿倉先生の、教育は出資者に明示的に還元されないとダメという意見はビジネス的な観点だが、教育制度を作る上で何のためにこれをやるのかがはっきりしてないと教育をする側もされる側も効果が薄くなりそうだ。
肯定派の発表
- 和歌は主体的に色々な領域と関わる文学である。政治とも関わる。
- 古典は主体的に生き、幸せに生きるための智恵を授ける。
- 古典への社会的敬意が低下した現代では学校教育の段階でその魅力に気づかせる必要がある
- 情理を尽くした指導力・優れた着想は心の錯綜状態が母胎になっている。そのモデルケースが古典にある。
- 徒然草百三十七段は吉田兼好が固定観念を脱出した具体例になっている。
- それなりに豊かな国の国民には自国文化を識る権利がある。
- 理系文系の区別は本質的なものか
- 江戸時代に医学書・本草学書をパロディにした文学ジャンルがある。こういうのは文系理系どっちの読書になるのか。
- 古文漢文が読めなければ江戸時代の理工書は読めない。そういった研究をする際、文学部でのトレーニングが必要だが、高校までの学習内容も必要。
- 2000年以降フィリピン大学では日本の古典芸能を学ぶプログラムが立ち上がった。
- フィリピンでは他の国の文化に憧れるのに自国の文化を軽視する風潮があった。
- サンフランシスコ条約から50年たった2000年代東南アジアで日本にもう一度賠償を求める流れがあり、フィリピンのこの動きの一つだった。
- その時ある大使がこれをきっかけに日本の伝統芸能を知り逆に交流を深める機会にしようとした。フィリピンがフィリピン人の手で日本の伝統芸能を上演することになったのはその動きに乗ったため。
- 結果反日デモの勢いが縮小したという事実があり、それは古典のもつ力の一つではないか。
- フィリピン大学はこの活動を通してフィリピン人に自国の伝統芸能への関心を持ってもらいたいという狙いがある。
肯定派は具体的に古典から学べる事例・古典が役になった事例を出してきて面白い、かつこういう授業を受けたかったと思わせる内容だった。古典否定派は具体性という点で弱かった。今現在やってる古文漢文の授業時間でこれだけのことができますよとか授業計画を出してきたら議論がより噛み合ったのではないか。
また実際高校では古典の授業は少なくなってきているそうだ。資料によると今まで古典という独立してあった単位がなくなり、「言語文化」という単位になるらしい。
会場での議論
- 今の日本の人文学は自分たちのための人文学になっていて役に立たない
- ユーザーに向けての人文学が必要。
- 理系にとっての人文学教育が不足している。
- なんで古典なんだという点に答えるべき。
- 古典を芸術に入れていいのか?
- いま一番割りを食っている音楽美術の時間がさらに割を食うことになる。
- 現代語訳では古典のニュアンスを読み取れない部分もあるが、実際現代語訳を使うことも必要。
- どんな人間を作りたいかというのが教育の役割だとしたら「幸せ」というキーワードで古典のメリットを可視化できないか。
- どんな基準で測ればいいのかわからない。
- 例えば古典を学ぶと語彙が多様になる。
- 多様な言葉を多様に使える=幸せなのか?
- 米語はドンドン簡単になっていく。日本語も意図的にそうすべきではないだろうか。
- 今現在の教育制度が制度疲労を起こしているのでは?
行ってきた後自分が考えたこと
ここからは会場での議論や、その後ネット上での議論を見て自分が考えたことを書く。考えたことをまとめると以下の3つくらいのポイントに絞られる。
- 「歴史的資料を読み解く訓練は必要」?
- 「実際役に立つ知識を教えるだけが学校ではない」
- 「議論・発表の授業が必要」
「歴史的資料を読み解く訓練は必要」?
現在の古文教育では実際問題として歴史的資料は読み解けない。例えば自分が最近読みたいと思った古文書に「武備目睫」というのがある。平和な時代での武士の非常マニュアルで、「町人に無礼なことされても可能な限り我慢しろ」とか「喧嘩を避けるため登城の際は人より早く到着し人より遅く退出しよう。そうすれば混雑に巻き込まれない」とか書いてあるそうですごく面白そう、かつネット上に公開されているので読みたいんだけど私は読めない。なぜか? くずし字で書いてあるからですね。
韓国では漢字を廃止したので今の韓国人は自国の昔の資料が読めないと言われるが、くずし字を読み解ける日本人と漢字を読める韓国人って人口の割合としてどっちが多いの? そりゃ古文の文法がわからなければ古文書は読めないが、くずし字の読み方を教えない今の古文教育はアルファベットを教えず英語について学ばせてるようなものだ。今「歴史的資料を読めるように~」と主張している人はこの点をどう思っているのだろう? 結局大学で専門教育を受けなければ役に立たない知識なら高校生すべてに必修させる必要はないという風になっても仕方ないと思うな。
もちろん明治期の文語体の文章を読むには今の古文教育でも役に立つ。近代日本を形作った時代の文献を読めるというのは意味あることなのでそれを以って古文教育の必要性を説くのはアリだが、そこを目的として授業をするなら扱う教材も「源氏物語」より「大日本帝国憲法」とか明治時代の法制史をやるべきでは?
「実際役に立つ知識を教えるだけが学校ではない」
この意見については個人的には賛成できる。学生が将来どんな職業につくかわからないし、何が実際役に立つかどうかわからないところはある。役に立たせる方法がなかった研究が技術の進歩で脚光を浴びることになった話は前に自分でブログにも書いた。状況は常に変わり続けるもので今役に立つことがそのままずっと同じ価値を持ち続けるかわからない。短期的に役立つことだけ教えていたら潰しが効かない人間ができあがりかねない。
だけど、役に立つかどうかわからない知識というのは古典に限らず無数にあるわけだ。歴史だって今の日本は政治史中心に教えてるけど文化史や技術史だってある。英語の授業だって文法中心はダメだ会話ができるようにならなければならんって言うけど両方できればもっといいに決まってる。美術だって水彩画っていうのは水で洗い流すのが簡単だからやらせてるわけだけど、油絵をやらせたら凄い画家になる才能を持った学生を眠らせたままにしているかもしれない。古典教育でも海外のエリートと話すために共通話題としてラテン語の古典をやらせるっていうのも全然アリだろう。だが、高校生の授業時間というのは一定時間に限られている。
色々様々なジャンルの学問がある中で古文漢文が特権的な時間を持つべき理由とは何か。国語全体の時間の中で一学期源氏物語をやるとかじゃ駄目なのか。自分は正直この問題にはっきりとした答えを出せない。ただ、日本語のリズムや音楽性というものについて体感するのは古文の授業じゃなきゃ難しいと思う。現代文では言葉のそうした方面については軽視されているので。しかし高校生の必修にすべきことかと言われると悩む。
「議論・発表の授業が必要」
議論・発表の重要性というのはわかる。でもそれは国語に限らずあらゆる科目でできることなんじゃないか。板書をノートに映して試験はペーパーというのが日本の授業の基本だが、これを見直す必要があるんじゃないか。
例えば歴史の授業で一人ひとり課題を選び、一週間後に発表、発表後質疑応答があり、総合的な結果で点数が付けられるという方式だってあり得る。古文だってテキストをみんなの前で訳し、なぜそうなるのかの講義を行えとなれば立派な発表の練習になる。数学はどうしてもペーパーテストになるかもしれないが、他の科目はだいたい議論・発表の勉強にできるはずだ。
プレゼン下手、議論が苦手という国民性を変える国家百年の計ならば、国語だけに問題を押し付けては解決しないと私は思う。すべての科目すべての授業のやり方を見直す必要があるのではないか。
古典教育の力を図る、まずはそこから始めるしかないのではないか
偉い先生たちが集まって、熱気のある会場で話し合ったが、否定派が古典より優先すべき課題はある、に対して肯定派が古典の価値・力を提唱するというどこか噛み合わない部分が見えた。
どこが噛み合わないかと言うと、学校で古典を教えることで生まれる価値がどんなもんなのか、古典教育をやめて代わりにする教育で生まれる価値がどんなもんなのか、否定派も肯定派もはっきり示すことができてないからだ。
そんなもの図れるわけないだろうとお思いだろうが、限られた時間で限られた授業をする以上、どうにかしてそれぞれの価値をより具体的な形で示さないと比べてどちらにリソースを割り振るか決めようがない。というかすでに(削られてるとはいえ)時間を使っている古典学習の方から、具体的にこういう目標を持ってこれだけの力を高校生につけてますとはっきり言えないのはちょっと辛いのではないか。学校で古典を教えている意味について詰めきれずに教えているのが実情なのでは? と思ってしまう。
もちろん、古典研究は歴史研究や日本語の成り立ちを考える上で絶対に必要だし、千年以上書かれてきたテキストの中には面白いものはいっぱいあるだろう。古典というのは必要と認めた上でどこまでどんなふうに教えるのか考えていく必要がある、と今回のシンポジウムを見て思わされた。
とりあえず肯定派パネリストの福田先生の著作『医学書のなかの「文学」』は面白そうなので読みたいと思う。江戸時代って本当にパロディ文化が発達した時代だったんだなぁ。