いやーぬけぬけととんでもない映画を作りましたね『君たちはどう生きるか』。宮崎駿がここまでガードを降ろして作品を作ったのは初めてじゃないのか? 80歳にもなるとちまちまとしたストーリーの伏線とか起伏とかこだわらない境地に達し、堂々と己の思考をそのままアニメにしてしまえるのだ。
この映画は『紅の豚』の飛行機の天国とか『千と千尋の神隠し』の電車パートとか『崖の上のポニョ』の洪水後とか『風立ちぬ』のカプローニと会える夢とかそういうジブリ映画お約束のこの世ならざる世界パートがメインの舞台になったような映画だからもう理屈とかなんでもいいわけです。
どうせジブリだからしょっちゅうテレビでやるだろとか思って劇場で観ないのはもったいない。作画は間違いなくいいから。背景美術がどこも美しい。古い建物の質感とかファンタジー世界の空気感とかはぁ~って感心しちゃう。人間とか動物とか動くもののちょっとした動きまでが丁寧。火事のシーンはこんなんどうやって描いたんだってなるくらい物凄い。
スタッフロールを見るとスタジオ地図(ジブリで監督する予定だったが結局話が流れた細田守)とかスタジオポノック(ジブリを退社した米林宏昌)とかスタジオカラー(宮崎駿の弟子的な庵野秀明)とSTUDIO4℃(ジブリのラインプロデューサーだった田中栄子)とかジブリ関係の人材が集まっててそれだけで涙が出てくるアニオタもいるかもしれない。ジブリアベンジャーズですよ。
前回の記事で『風立ちぬ』を作ったからもう『君たちはどう生きるか』が駄作でもいいんだと書いたが、本作は少なくとも駄作ではない。『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』レベルかと言われたらそうじゃないが、そもそも作品のベクトルが違う。これは宮崎駿の自伝であり遺言で、娯楽作とは言えない。アート系アニメを見に行くつもりでいけば楽しめるかと思う。
時は太平洋戦争中の1944年、東京を襲った空襲で入院中の母を亡くし、父が経営する戦闘機工場とともに、一家は郊外へ疎開する。出迎えたのは父の再婚相手となった母の妹。お腹に新たな命が宿っている新しい母を、眞人は受け入れられず、転校先でも孤立する。そんなある日、疎開先の屋敷で眞人は偶然、1冊の本を見つける。
屋敷の庭の森には、廃屋となった洋館が建っている。眞人の「大おじ」にあたる伝説の人物が建てたという。やがて眞人の前に「母があなたを待っている。死んでなんかいませんぜ」と人間の言葉を喋る青いサギが現れ、導かれるように、眞人は洋館の中へと進んでいく――。
「君たちはどう生きるか」宮崎駿監督が、新作映画について語っていたこと。そして吉野源三郎のこと
上で再婚相手の母の妹とか出てるけど、まったく情報を入れずに観たから、えっどういう関係って戸惑ったところもあった。まぁ昔の話だからね……。
全体の大枠としては児童文学ファンタジーで主人公の真人の成長物語だ。母の死、再婚して新しい母親ができる、環境の変化、新しい弟か妹ができる、異界からの案内人、案内人を追う少年、探し人、異界でメンター(指導者)と出会う、メンターと一緒に仕事をする、不思議な少女との出会い、奇妙なトリックスターとの冒険、異界の終焉、一回り成長しての日常世界への帰還。どれも児童文学などで繰り返し繰り返し書かれてきた要素である。
宮崎駿は児童文学好きだからナチュラルにこういう児童文学ファンタジー的な大筋に則って映画を作れてしまうのだろう。オススメの児童文学をまとめた本を出しているくらいだ。『本へのとびら』にはゲド戦記のこととかもちょっと書かれてて面白いよ。
疎開で「住んでいるところを離れた」真人が自分の頭を石で傷つけるという自傷行為で学校を休み「寝床で寝続ける」というのも児童文学ファンタジーあるあるだ。『床下の小人たち』(はっきり断言するが『借りぐらしのアリエッティ』はクソ)で小人と出会った少年は病気療養のため屋敷にいたし、『トムは真夜中の庭で』のトムは弟がはしかにかかったためおじさんの家で隔離されてベッドで眠れない夜を過ごしているうちに13回目の時報を聞くことになる。
新しい母親と新しい弟妹に不安になる少年というのはファンタジーに限らずフィクションの王道と言えるだろう。ファンタジーの世界への門は、日常で安心して暮らしている子供よりもアイデンティティが揺れ動いていて心が不安だったり病気だったりする子供に開かれているものだ。このへんをよく知りたいなら河合隼雄『ファンタジーを読む』がおすすめ。
そしてファンタジー世界で様々な出会いと冒険をくぐり抜けて成長し元の世界に帰還する。まさに王道の児童文学と言えるだろう。
では、それだけ普遍的なファンタジー作品の大枠になっているのに何故難解という人が出るのか。それは児童文学ファンタジーにジブリのメタファーが大きく重なっているからだと思われる。
真人はファンタジー世界を作った大叔父から自分の役割を継承して新しい世界を作ってくれと頼まれるがそれを断る。この大叔父と世界を表象する13の積み木だが、これは宮崎駿とジブリのことだろう。老いて自分の後継者を探す大叔父はそのまま老いた宮崎駿、13の積み木は宮崎駿がこれまでに作ってきた13の長編映画作品。そして疎開して田舎にいったり父親が飛行機製造の偉い人で裕福な子供の真人は宮崎駿の子供の頃の境遇が重ね合わさっているので、真人もまた宮崎駿の分身なのだろう。
つまり若い時の宮崎駿が老いた宮崎駿から新しいアニメを作ってくれと頼まれるが、それを拒否するという話になる。つまりアニメ監督になんてならなきゃよかった/アニメ監督になんてなるもんじゃない、というのがこの映画のテーマの一つなのだろう。
真人は外で友達を作るといい、アオサギはここでの出来事などすぐ忘れてしまうという。これはアニメなんて見たら内容などすぐ忘れて外で友達を作るべきだという意味と取れる。ファンタジー世界が崩壊することで解放されるペリカンやインコは今まで自分の手足として働いて貰っていたスタッフが自分から解放されてよかったねというエールなのかも。
最終シーンで東京に帰る時の真人はファンタジー世界での出来事を覚えているか忘れているかわからないように描写されている。覚えているという描写もされていなければ忘れているという描写もされていない。おそらくそのくらいの塩梅がアニメとの付き合い方でちょうどいいとされているのではないか。
勘ぐりすぎと言われるかもしれないが、ファンタジー世界での少年の成長という話に「滅びゆく世界の継承」という要素を入れてきたのは宮崎駿なので、私はまったく悪くない。悪いのは宮崎駿です。
「おそらく、訳が分からなかったことでしょう。私自身、訳が分からないところがありました」。2023年2月下旬、東京都内のスタジオで上映された、「君たちはどう生きるか」の初号試写。米津玄師の歌うピアノバラードが流れ、エンドロールが終わった瞬間、灯りが点き、宮崎駿監督のコメントが読み上げられた。
「君たちはどう生きるか」宮崎駿監督が、新作映画について語っていたこと。そして吉野源三郎のこと
宮崎駿はこのように自分でも訳がわからないって言ってるけどこういうのは発言をそのまま受け取ってはいけない。アニメ映画は全部のシーンを一から描いてるんだからよくわかんないけどなんか出来ちゃいましたで作れるものではないので。すべてに対して明確な設定や理屈があるわけではないだろうが、まったく何も考えずに作ったわけがない。
だがこの作品の主題歌を作ってくれと頼まれた米津玄師は王道ファンタジーとジブリメタファーをどう詩文にまとめるか苦労したに違いない。そこで基本は主人公の真人目線でありながら、「時に人を傷付けながら 光に触れて影を延ばして」「手渡した悲しみを 飽き足らず描いていく」などと大叔父目線にも取れなくはない歌詞を書けるのが流石なのだが。
で、ここからが怖い話なのですが、大叔父=宮崎駿、積み木=ジブリとすると、自分で積み木を積もうとするも上手くいかず挙げ句自分で壊してしまうインコ大王が何のメタファーなのか考えるとすごくすごく恐ろしいことを言ってると思いませんか。それってつまり継承しようとしてるけどどうしようもない人間がいるかのような……。
上記で書いたように、本作は宮崎駿自身の人生が色濃く反映された映画だ。主人公の真人も宮崎駿であり、後継者を探す大叔父もまた宮崎駿、そして真人が旅をする世界もまた宮崎駿の心象風景なのではないだろうか。
本作はどこか死の印象が漂っている。疎開先の屋敷にもファンタジー世界にもだ。それは造り手の宮崎駿が本作を遺言として作っているからだろうと私は思う。世界の継承に失敗して塔が崩壊していくのも本人の人生の総括なのだろうし。後継者なんていらないと思っているのも素直なところなのだろう。
真人が世界の継承を拒否するところとかナウシカの漫画版とほぼ同じ理屈だ。悪意のある自分/ナウシカたち汚染された世界に生きる人類は、理想の美しい世界を作れない/浄化された地球では生きていけない、しかしそれでも戦火の続く世界で/闇の中で生きるのが生命だという主張。老人になって作った最新作がオリジナル長編映画としては初(のはず)のテーマに帰ってくる(映画じゃなくて映画作った後の原作漫画の続きだけど)のは処女作にはその作者のすべてが現れるという言い伝えの通りだ。
自分の人生やジブリのあれこれをメタファーとして映画全体に盛り込み、若い時(いや完結させた時は言うほど若くないけど)の結論に再び戻ってくる。まさに総決算であり、最後に残す遺言としてふさわしい映画だったのではないか。『君たちはどう生きるか』は「私はこう生きた。君たちはどう生きるのかな」という意味ではないかと思えてくる。
遺言とか死の印象とか書いたが暗い映画かと言われるとそんなことはない。児童文学ファンタジーの大枠を利用したせいもあるだろうし、からっとして重くない作風もあるだろうし、それ以上に力強い動きの奔流が描かれてるからでもあるだろう。また宮崎駿は完全な消滅というのをどっかで信じていないのではないか。本人も戦後の復興を見ているわけだし、未来少年コナンだって文明は滅んでも人類は死滅していなかったわけだし、死の後には誕生がある、ということも織り込み済みの上の「死の印象」という感じがする。
真人の父親の、有能だし悪い人じゃないんだけど色々難しいものを抱えた少年の情緒的サポートは望めないという造形も良いというか、こういう強い父というのは近年のフィクションで全く描かれなかった気がする。ここらへんも自伝的な要素なのかしら。
このファンタジー世界が描けるならゲド戦記の第三部絶対作れたよなぁ……。創造主の老化でおかしくなった世界(『君たちはどう生きるか』)と、禁断の魔法によって均衡が崩れた世界(ゲド戦記)と似通ったファンタジー世界だし。アオサギというキャラクターが描けるならゲド戦記3部のおかしくなった世界を案内するおかしい案内人も描けそうだ。
本作を近親相姦的なヒロインと言ってる人がいるけど、白状しますが恋愛的な感受性がほとんどない自分にはこの映画のそのあたりにはよくわかりませんでした。
ババアの一人が真人と同行し始めたときは、「おいおい今回の旅の仲間はババアかよ!」と盛り上がったけど流石にババアのままではなかったですね。後、父親が日本刀とか色々装備し始めたときは「現世と異界同時並行で描かれるのか~!?」とワクワクしたけどそれもなかったですね。その2点が私的にはガッカリポイント。
わらわらもかわいいけど、インコ人間すげえかわいい。人間を普通に食おうとするところもこわかわいい。
クリアファイルとかマグカップとかよりババア人形とかそういうグッズが欲しい。
火事で死ぬ主人公の母親、産屋が禁忌の場所、これ古事記の木花之佐久夜毘売ネタか?
子供の頃と老人の頃の宮崎駿は描いたから次回作では青春の頃の宮崎駿をお願いします。
最後真人が石を持ち帰ってる?のはマザー3のドアノブだよね。次はお前の世界でも頑張ってねという……。
鈴木プロデューサーが高畑勲モデルのキャラが出てきますよって言ってたけど、それはおそらくアオサギだよね。
訂正:鈴木プロデューサー自身がモデルのキャラらしい
どっちにしろそんなアオサギに「じゃあな、ともだち」って言わせるのズルくね?