未来のギリシャの架空の肖像であると同時に、影を落としながらも明々と燃えるたゆみない再生のプロセスの描写、それこそが、この『ノヴァ・ヘラス』なのだ。
『ギリシャSF傑作選ノヴァ・ヘラス』「はじめに」ディミトラ・ニコライドウ 訳:安野玲
アマゾンでこの本を見つけた時、ギリシャSFというところにも竹書房というところにも目が吸い寄せられてしまった。
ギリシャSF? しかも竹書房? 竹書房といったら『近代麻雀』とか『ぼのぼの』とか『メイドインアビス』とか『うめともものふつうの暮らし』とかの出版社だと自分は認識していたが、どうも結構前からSFに力を入れて出版しているらしい。そういえば前に読んでいた『いずれすべては海の中に』も竹書房だったわ。
日本からのギリシャSFの歴史を概観してほしいという要請に答えて書かれた序文によると、ギリシャには2世紀にルキアノス『本当の話』というスペーストラベル、エイリアンとの遭遇、惑星間戦争が書かれた最古のSFがあるにも関わらず、近代ギリシャのフィクションは不安定な政治や社会に焦点が当てられており、SFはなかなか定着しなかったのだという。
その状況を変えたのが1974年の軍事独裁政権の崩壊と、『スターウォーズ』や『宇宙大作戦』のような映像作品の大ヒットだそうだ。日本では1962年に小松左京、平井和正、筒井康隆、豊田有恒ら日本SF第一世代がデビューしているので、ギリシャでSFシーンが広がっていったのが70年代半ばからとすると確かに遅い。『スターウォーズ』がSFブームをよんだのは同じだが。
ギリシャSFが花開いていったのが90年代末から00年代初めのことで、大きな役割を果たしたのがギリシャの2大新聞の一つ『報道の自由』に封入された『9(エニア)』という雑誌だった。コミック中心の雑誌だったが、ギリシャオリジナルSFや翻訳SFも週一回必ず掲載され、SFの窓口を広げるとともにSF作家のメインストリーム市場への進出の道となったらしい。一般の人たちの目に届くところにSFのメディアがあったというのは日本からすると羨ましい話である。
1998年に『9』の編集長が初代会長になって設立されたALEF(アテネ・サイエンス・フィクション・クラブ)がSF雑誌を発行したりワークショップを開催してSFアンソロジーを出版したりとギリシャSFの推進力となっていった。『ノヴァ・ヘラス』の元となったのも、ALEFに持ち込まれた「展覧会との連動企画で未来のアテネを書いてほしい」という依頼から生まれた2017年のアンソロジー『α255─未来のアテネの物語』だ。
本書は、竹書房が出したイスラエルSF傑作選『シオンズ・フィクション』の好評と話題性(国内外からの)を受けて出版されたもので、翻訳家中村融が読んだいくつかのアンソロジーの中から一番面白かったものとして翻訳されたという経緯があるそうだ。散発的な試みはあったが、ギリシャSFがまとまった形で海外に紹介されたのは今回がはじめてというから驚きだ。
今まで日本にギリシャSFが入ってこなかったということは逆にいえば、本書(とルキアノス『本当の話』)を読めば「ギリシャSF?日本語で読める奴は全部読んだよ?」と通人ぶることができるのだ。ついでに『竹取物語』を「世界最初のSF」なんて言う輩に、「竹取物語は竹取物語は9世紀後半から10世紀前半の物語だけど、ルキアノス『本当の話』は2世紀だから世界最初じゃないね」とマウントを取ることもできる。なんか『バーナード嬢曰く。』に出てきそうなネタだけど、単行本に入ってないところでマジでやってそうで怖くなってきた。
2015年の経済問題からくるユーロ離脱の危機が記憶に新しい時期に執筆されただけあって、基本的に社会が荒廃し、テクノロジーによって世界が変わっている作中世界が多い。その中で必死に生き抜こうとする人間やアンドロイドたちの物語ばかりなのは序文で宣言されたとおり。
オススメの短編集だが、中でも面白かった短編のあらすじや感想を書いておく。
もう一度深呼吸する。わたしは大丈夫。私にはなにも起こらない。
ヴァッソ・フリストウ『ローズウィード』 訳:佐田千織
気候変動と海面上昇によって海の底に沈んだアテネ都市圏にある港湾都市ピレウス。アルバニア系ギリシャ人のアルバは気象学を勉強するための金を稼ぐためダイバーとして沈没した都市の調査を行う仕事に就いていたが、ある日テーマパーク会社から沈没したピレウスを舞台に金持ち向けの潜水ツアーを作る仕事をしないかとヘッドハンティングされる。
変わり果てたギリシャと、クソみたいな金持ち、それでもタフに生き抜こうとする主人公というまさに本書を象徴するような一話。ローズウィードは作中登場する沈没した都市に蔓延っている有毒な海藻のこと。
「問題は解けない──社会工学の第一法則」
コスタス・ハリトス『社会工学』 訳:藤川新京
社会工学のエンジニアであるダニエル・ワンは、アテネの拡張現実のグレーゾーンを巡る投票にて市民の投票を操作することを依頼される。彼は一体どのようにして三百万人の投票者の行動を操るのか?
主題はどうやって犯行を成し遂げるかのハウダニットなのだが、拡張現実の描写が面白い。教会が開発した拡張現実では天使のナビゲーターが人間に語りかけ、社会的弱者の問題に取り組むNGOが開発した拡張現実に乗っ取られた地区ではナビゲーターがホームレスだったり移民二世だったりする。拡張現実の開発者によって世界は変わり、現実をどう見えるかは変わる。そして拡張現実の信号を受け取るチップなんて入ってない現実の我々だってどこかの誰かが考えた思考様式を通して界を見ていたり投票先を選んだりしているのだ。
「わたしたちは都市の運命と人間の運命を分離したのです」
イオナ・ブラゾブル『人間都市アテネ』 訳:佐田千織
人本主義経済によって市民はその特性能力に応じて必要とされる都市に効率的に配置されるようになった近未来のアテネで、移動してきた市民を出迎える駅長に任命されたマデボが迎えた最初の仕事はじめを書いた短編。
オチの「仕事はあなたを自由にしてくれる!アルバイト・マハト・フライ!」がわからないとよく意味がわからないかもしれないのでちょっと解説しておくと、「アルバイト・マハト・フライ=仕事はあなたを自由にしてくれる」はナチスがユダヤ人強制収容所の門に掲げた標語のこと。
作中世界で民主主義に代わり人間を都市から解放したという「人本主義経済」がどんなものなのか、新しくアテネに到着した市民に駅長がこう呼びかけるということはこの都市はいったい何なのか、このラストの一文によって読者に強烈に理解させるという、短編ながら非常に良いディストピアもの。なのだがこのオチの元ネタがわからないと恐ろしさが十分に伝わらないのでそこはハードルがあるかも。
責めを負うのはなんなのか、内心のもやもやが晴れたことはない。
イアニス・パパドプルス&スタマティス・スタマトプルス『蜜蜂の問題』 訳:中村融
蜜蜂が絶滅してしまった近未来、元警官でドローン技術者のニキタスは蜜蜂代わりのドローンを使い作物を受粉させることで生計を立てていたが、ある日、本物の蜜蜂の死骸を発見する。
蜜蜂の減少は実際に問題になっているが、本作ではさらに進んで蜜蜂が実質的に絶滅してしまっている。主人公のニキタスは不法移民を処理する元警官だったのだが、彼の同僚が不法移民の少年を殺したことをきっかけに人権侵害に関わった犯罪者として追われる身となり、ドローン技術を提供する代わりに地区で安全を保証される境遇になった。環境問題と移民問題を背景に主人公の葛藤が上手く書かれており、短編だからこその切れ味かなとも思うが、もうちょっと長めに読んでみたかった。
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