『ショーシャンクの空に』に登場するレッドというキャラクターがマジカルニグロと呼ばれて批判されている記事がある。しかしこの記事では『ショーシャンクの空に』のレッドはマジカルニグロではないということを主張・説明したい。
「マジカル・ニグロ」は白人のメインキャラクターを助けるために、自らが持っている古くからの知恵や神秘的な力を差し出す。そして、時には天使の格好さえしている。 この役回りが多い俳優の一人と言えば、間違いなくモーガン・フリーマン(Morgan Freeman)だろう。その作品には、『ロビン・フッド(Robin Hood: Prince of Thieves)』(1991年)、『ショーシャンクの空に(The Shawshank Redemption)』(1994年)、『ブルース・オールマイティ(Bruce Almighty)』(2003年)と2007年の続編『エバン・オールマイティ(原題、Evan Almighty)』、クリストファー・ノーラン(Christopher Nolan)監督版「バットマン(Batman)」3部作(2005年、2008年、2012年)、そして最近ではリメイク版の『ベン・ハー(Ben-Hur)』(2016年)などがある。 「マジカル・ニグロ」、米ハリウッド映画に見る人種差別問題 太字は引用者によるもの
まずマジカルニグロとは一体何かについて説明しなければならない。ウィキペディアのマジカルニグロの項目にはこう定義されている。
マジカル・ニグロは困難にある主人公を救い出し、物語を展開させる装置となる。典型的な例として、自分の過ちを見つめ直し、それを乗り越えようとする白人を手助けする黒人が挙げられる。また不思議な力を持ってはいるのだが、その「魔法は登場人物の白人男性を支え、啓蒙するという名目でしか使われない」。「そういった力は、だらしなく無教養で、自分を見失ったか身体を壊した白人(ほぼ例外なく白人男性)を救い、成功をおさめ満ち足りた優秀な人間に変身させるために使われる。贖罪と救済というアメリカの神話がその背後にはある」。そしてここにマジカル・ニグロの最も厄介な問題があるといわれている。つまり黒人を肯定的なキャラクターとして描いているようにみえても、結局このわかりやすい見取り図の中で黒人は白人に従属的であり続けているのである。 Wikipedia
最初にこの概念を提唱したスパイク・リー監督の発言全文は見つからなかったが、英語版ウィキペディアの典拠になっていたこのサイトによると、マジカルニグロの例として挙げられた作品は『天使のくれた時間(原題:The Family Man)』、『奇跡の輝き(原題:What Dreams May Come)』、『バガー・ヴァンスの伝説』、『グリーンマイル』の4本だ。
私がこの4本の中で観たことあるのは『グリーンマイル』だけだが、たしかに『グリーンマイル』のコーフィは無垢な超能力者で主人公に都合のいい存在だと言われたらたしかにそうだ。『天使のくれた時間』、『奇跡の輝き』、『バガー・ヴァンスの伝説』もネットのあらすじだけ見ると、確かに黒人キャラがストーリーのきっかけでしかなく、本人にドラマはなさそうな感じはする。
しかし、「主人公を助ける脇役」や「ドラマの転機になるきっかけ」に黒人を使うことの何が差別なのかピンとこない人も多いだろう。映画には上映時間の制限があり、主役から脇役まですべてのキャラを同等に深く掘り下げるのは無理だ。日本人からすればたまたまそういった掘り下げの少ないキャラに黒人があてられただけなのではと思いがちだろう。マジカルニグロの何が問題なのかわかるには、長年アメリカ文化にある「アンクルトム」というステレオタイプについて知っておかないといけない。
「アンクルトム」というステレオタイプについてざっと知っておくには、『アメリカ映画に見る黒人ステレオタイプ』がわかりやすい。この本では黒人キャラクターの5つのステレオタイプを解説しているのだが、アンクルトムは奴隷制度廃止以前の小説『アンクル・トムの小屋』に起源があり、ミンストレル・ショーの中で形成されていったステレオタイプだ。
『アンクル・トムの小屋』は、奴隷だが善良で敬虔なクリスチャンである主人公のトムが売られていった先で残酷な扱いを受けて死んでしまうという内容で、黒人奴隷に対する同情を喚起させて奴隷制度を廃止する目的で書かれた小説だった。
だが、白人が黒塗りで黒人を演じるミンストレル・ショーのキャラクターとしてのトムからは悲劇的なイメージや奴隷制反対のメッセージ性がなくなり、「”悪気のない、おもしろいおじいさん”のトムがかわいそうな目にあうコメディ」として定番になっていった。そしてアンクルトムは「南部では奴隷自身が奴隷という現状に満足し、楽しく暮らしているのだ。トムのような愚か者を開放したとしても、自活できず困るだけなのだ。だからこそ奴隷としておいてやるのであり、奴隷制度は良い制度なのだ」という奴隷制支持派の根拠にされるようになってしまったのである。
白人の忠実な僕である陽気で愚かでかわいそうなトムというステレオタイプは、奴隷制が終わってからも「白人は自分よりもエラいのだから自分はさておき白人の都合を優先する」キャラクターとして文学や映画に登場し続けた。フィクションの世界を離れて、現実の世界では白人の決めた差別的ルールにも自分の身の安全を考えてとりあえず従おうとする「優等生タイプの黒人」を侮蔑的に刺す言葉として「あいつはアンクルトムだ」などと使われることもある。
そして『アメリカ映画に見る黒人ステレオタイプ』では、マジカルニグロをこうしたアンクルトムの亜種として定義している。ちょっと長めに引用したい。
彼らを簡単に定義づけるなら、「超自然的な力を発揮して、みずからを投げうって白人主人公を助ける黒人わき役」であり、トリックスター(trickstar)的な人物、である。トリックスターとは、いたずら者、道化などと訳されるが、基本的には「トリックを用いるか、用いているかのような不思議な言動をする存在」という意味で、民話や伝説に登場する伝統的なトリックスターの特徴を簡単に述べると、次のようになる。アンクル・トムは知能では白人に劣ることになっているのに対し、マジカル・ニグロたちはトリックかと思うような超人的な能力を発揮するので、よりトリックスター的であるといえる。 (中略) 彼らは、たんに外見や言動が不思議なだけではない。主人公を含む白人たちに「ふつうでは考えられないレベル」の自己犠牲的態度で尽くす。また、彼らには異世界からの亂入者(お門違いな人)のイメージがあり、単独ではなんの力も発揮できない者という共通点がある。つまり、彼らの奇妙な言動は、それを解釈し現実化していく(白人の)主人公がいてはじめて意味をなす。その意味で、彼らは究極のわき役なのである。 マジカル・ニグロ的人物のほとんどが、物語の最初から最後まで性質が変わらないという点もトリックスター的といえる。だんだん成長して「大人びてくる」とか、人のことは置いておいて自分の人生を切り開かなければ、と思いたつなどということがなく、最後まで白人に尽くす。そして、多くの場合彼らは、主人公をめぐる問題が解決して映画が終わるころ、どこへともなく消えていく。彼らは、映画の世界のトリックスターであり、ファンタジーの世界のアンクル・トムということができるだろう。 『アメリカ映画に見る黒人ステレオタイプ』P16
- 良いこともすれば悪いこともする、両性具有である、超能力者なのに幼稚である──など両義性または多義的性質の持ち主である。
- どこからともなく現れ、いつのまにか去っていくという、「ストレンジャー」(よそ者、亂入者)である。
- まわりに働きかけ、停滞する状況をゆり動かし、変化を生じさせる傾向がある(平和な村に入り込み、住民をそそのかして騒動を起こす、道化として敵も味方も笑わせ、場の空気を変える、など
- 「道化は道化」というように、物語の最初から最後まで性質が変わらない(道化師がヒーローになったり、心を入れ替えて善人になるということは基本的にはない)。
つまりマジカルニグロの何が問題かというと、それはアメリカ文化の中で踏襲されてきた白人に都合の良い黒人キャラクターのステレオタイプだからということだ。例えそれが表面的には超能力を持っていて主人公を助けてくれるおいしいキャラに見えても、忠実で幸せな黒人奴隷の変化系でしかない、というのがマジカルニグロが批判される理由だろう。
マジカルニグロの要素をまとめると、だいたいこうなる。
では『ショーシャンクの空に』のレッドはこれらの要素を満たしているだろうか?
まず1つ目、超自然的な力を持っているか? レッドは刑務所の調達屋で確かにアンディーに色々な物品を売る。しかし調達屋は別にマジカルな方法で物品を持ってきているわけではないはずだ。具体的に囚人がどうやってロックハンマーやポスターを調達するのかは無知なもんで知らないが多分そうだろう。調達の手筈を具体的に描かないのもそこが主題じゃないからで別に神秘的なものとして描かれているわけじゃない。
2つ目、白人主人公に自己犠牲的に尽くしているか? レッドはアンディーのことを最初に見たときから気に入っているが、色々便宜を図ってやるのは友情の範囲だろう。自己犠牲的ではないが、アンディーのほうが刑務所で色んなことを改善していく。それも究極的には自分の自由のためであって別に滅私奉公に喜びを感じている愚か者だからでも他人に都合の良い存在として設定されているからでもない。
3つ目、主人公の問題を解決して役目を果たすとどこへともなく消えていくか? この映画において先に姿を消すのは主人公のアンディーの方だ。
4つ目、脇役であり、物語を通して変化成長しないかどうか? これは映画を見てもらえばはっきりしているが、『ショーシャンクの空に』を通してレッドはアンディーが決して手放そうとしない希望に感化され、最初のシーンと最後のシーンでは別人のように変化している。それはレッドの仮釈放面接シーンを比べて見ていけば明らかだ。お決まりの言葉を並べるだけの最初の仮釈放面接シーン、アンディーの持つ希望に触れるもブルックス老人の自死でやはり希望は危険と考え自分から変化を拒む二度目の仮釈放面接シーン、そしてアンディーが爽快な脱獄を果たしてからの三度目の仮釈放面接シーンでレッドは自分の罪に心底向き合って定型の言葉ではなく自分の言葉で反省と後悔を語り仮釈放の許可を受ける。この描写を見てレッドをトリックスターや都合の良い奴隷と捉える人間がいるのが不思議だ。
映画ではアンディーの脱獄がクライマックスになっているため主人公がアンディーになっているが、原作小説では主人公はレッドだ。過去の記事でも同じようなことを書いたので良かったら読んでみてほしい。
どうだろうか、4つの項目すべてにレッドは当てはまっていない。これでもまだレッドをマジカルニグロだと思うのだろうか? さらにそもそもの話をさせてもらえば、レッドはもともと黒人キャラクターではない。原作小説ではレッドはアイルランド系の白人だ。
むしろこの映画に”マジカル”なものがあるとすれば、無実の罪で刑務所に入れられてもまったく折れず自分の信念に基づいて行動し続けるアンディーの不屈の希望こそ”マジカル”だろう。
最初にマジカルニグロという言葉を作ったスパイク・リー監督は『ショーシャンクの空に』を例として挙げていない。では誰がレッドをマジカルニグロだと言い出したのか? 英語版ウィキペディアの「フィクションに登場したマジカル・ニグロの一覧」記事でレッドをマジカルニグロであるとしている典拠のサイトを調べてみると、
フリーマンの役柄は、「マジカル・ニグロ」、もっと簡単に言えば、主人公に貴重な視点や助言を与える、中程度の権威を持つ非常に賢いキャラクターであることが多い(『ショーシャンクの空に』『ミリオンダラー・ベイビー』『ドライビング Miss デイジー』『セブン』など)。さらに言えば、フリーマンが神(『ブルース・オールマイティ』とその不運な続編『エヴァン・オールマイティ』)やネルソン・マンデラを演じても、観客は大声で受け入れるのである。また、『ラッキーナンバー・スレヴィン』や『ウォンテッド』では、このタイプのキャラクターにひねりを加えて、なかなか見事なバリエーションを演じている。ジェームズ・アール・ジョーンズには及ばないが、フリーマンの聴覚的な能力は、クリストファー・ノーラン監督が『バットマン』シリーズに参加した際にも活かされている。 pajiba
と書いてある(DEEPLで翻訳)。だがこの記事には大いにツッコミどころがあるように思える。
ウィキペディアによればマジカルニグロの定義は
「そういった力は、だらしなく無教養で、自分を見失ったか身体を壊した白人(ほぼ例外なく白人男性)を救い、成功をおさめ満ち足りた優秀な人間に変身させるために使われる。贖罪と救済というアメリカの神話がその背後にはある」 Wikipedia
というものだが、セブンのモーガン・フリーマンはブラッド・ピットを成功に導いたか? 『インビクタス』のネルソン・マンデラに至っては主人公に助言を与えるキャラどころか主人公だ。ネルソン・マンデラはラグビーチームのキャプテンの幸福な奴隷か?
この文章はモーガン・フリーマンに対する解像度が極めて低い。特に『インビクタス』のモーガン・フリーマン、ネルソン・マンデラ大統領をマジカルニグロというのはとても問題があると思う。
ネルソン・マンデラの人間的魅力・カリスマは確かにすごい力として(モーガン・フリーマン力で)表現される。しかしそれをマジカルだというのは逆に「フィクションでカリスマのある黒人キャラクターを書いてはいけない」という差別なのではないか。ネルソン・マンデラは南アフリカにおいて白人のスポーツだったラグビーチームを存続させるが、それは黒人と白人の垣根を超えて国全体をまとめる象徴になって欲しいからであって、白人のラグビーチームのキャプテンを救うためではない。黒人大統領となったからは白人を南アフリカから叩き出さなければそれは白人に都合の良い奴隷でありマジカルニグロでアンクルトムだというのは極めて過激な政治的態度の表明であって、マンデラはそういう安易な道を取らなかったのが凄い政治家なのではないか?
インビクタスを普通に見れば、最初白人がラグビーをやり、黒人がサッカーをやっていた冒頭とワールドカップの決勝戦で黒人も白人も試合中継を観ているシーンとの対比で、ネルソン・マンデラが白人キャプテンを癒やす映画でもないし、ネルソン・マンデラは白人に都合の良い愚かな奴隷でもないとわかると思うのだが、モーガン・フリーマンの役は全部マジカルニグロだというような低解像度で世の中を見ている人間はそう捉えてしまうのかもしれない。
「マジカルニグロ」というのはアメリカにおける黒人キャラクターのステレオタイプ表現における歴史があっての批判なので、「マジカルオネエ」とか「マジカルギャル」とか「マジカル神秘的黒髪ロングガール」とか「マジカルスパダリ」みたいに安易にあれもこれもマジカル! と拡大するのはどうかと思う。ステレオタイプというのは功罪あって単純に全部排除しろとは自分には言えない。
都合のいいキャラクターというのは確かにいっぱいいるし、都合のいいキャラクターの都合の良さのバックボーンとしてマイノリティ性が付加されたり、マイノリティを無垢な聖人キャラとして書くことの安直さはあるが、それはまた独自に掘り下げて批評してほしい。
上野千鶴子はマジカルニグロの原型は「ハックルベリー・フィン」と言っているが、ハックルベリー・フィンのジムがマジカルニグロかどうかも議論の余地があると思う。
確かに『ハックルベリー・フィンの冒険』の主役は白人少年のハックであり、逃亡した黒人奴隷のジムと一緒に行動する中でハックが宗教上のタブーを超えて自分の考えた良いことに従って行動することが大きなドラマになっている。しかし、黒人脱走奴隷のジムは決してハックに都合の良いマジカルな教えを伝えるだけ伝えて消えるキャラクターではない。ジムは迷信深いがハックの言う事を独自の理論で言い負かしてしまうあたり決して愚かではないし、だいたいの白人の登場人物より人格的に優れている。ハックは当時の南部少年らしい差別心を持っているがジムの間にあるのは主従関係ではなく友情という方が適切だし、白人に忠実に従うアンクルトムに対してジムは主人の元から逃げ出して自由州で金を貯めて妻と子供を買い戻すという自分の強い意志を持っている。
もちろんマーク・トゥエインは現代の価値観からすれば人種差別的な価値観を持っていただろうが、時代を考えれば非常に開明的な考えだったことを評価したほうが建設的だと思うし、当時の黒人奴隷には迷信深いところは事実としてあったのではないか。
何年か前に「伯父がハワイに行った時の話」というのがツイッターで話題になった。人生最後の旅としてハワイに行った車いすの伯父が二人の男に支えられて海に入ることができたといういい話だ。しかしこの二人の男の内一人は黒人として描かれている。漫画の作者は何度も伯父からこの話を聞かされたらしく、どんな人種のどんな容貌の男だったかもおそらく聞かされただろうからおそらく本当に黒人だったのだろう。
ではこの黒人男性は「マジカルニグロ」だったのだろうか? 少なくともレッドやネルソン・マンデラよりはマジカルニグロの要素がある。都合よく現れて、バックボーンや内面がわからず、力を貸してくれる(神秘的じゃないけど)。この話が映画かドラマだったらマジカルニグロだと批判されるだろう。では彼がしたことは黒人差別の助長だったのだろうか? この伯父さんを助けず放置しておくことが政治的に正しかったのだろうか? 自分はそうは思わない。伯父さんを助けてくれた人たちは「自分たちがして欲しい事をしただけ」で盲目的な従属でもないのだから。しかしモーガン・フリーマンの演じているキャラはすべてマジカルニグロだというような低解像度の目を持った人間が増えると現実に黒人は人助けをすべきではない、といった議論が出てくるのではないか。