Categories: 読書

【読書】マーク・R. マリンズ『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』

なぜキリスト教は日本に根づかなかったんだろうか、開国後の日本にとって西洋の先進的な文化の一つとして受容されてもおかしくなかったのに、というような疑問を前からなんとなく抱いていた。近代文学関係の人を調べてみてもキリスト教の洗礼を受けた人が全くいなかったわけでもない。今の日本でキリスト教徒が総人口の1%にも満たないらしい。宗教には無頓着というか無節操な日本人ならキリスト教も一つの文化として受け入れても不思議じゃないのに何故だろう。

そんな事を考えていたのでこの『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』という書名を見てすぐに興味が湧いた。で、読んでみたら中々ためになるというか、今までよく知らなかった「日本の」キリスト教についてあまり見られない視点で語っていたので面白かった。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

日本のキリスト教土着運動

西洋のキリスト教をどこに移植しようとも、そこに必ずいたのは、イエスの重要性を「普遍的」と認めながらも、ミッション教会から離れて、新たに見出したその信仰を展開させる道を選んだ人々である。
マーク・R. マリンズ『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』P7

現在の日本のキリスト教はペリー来航後、開国してから日本へ宣教師が来てからが実質的な始まりとなるのだが、最初の宣教師はなんと1859年、まだ幕府も倒れていない安政の大獄のさなかにもう来日していた。それから1992年までの約140年間に200以上の布教団体が日本へやってきているというのだから驚きだ。本書にはそのリストが載っているのだがなんと7ページにも渡っている。

それだけ日本への布教は力が入った事業だったのだが、宣教師の布教はキリスト教のみならず、出身団体の所属する西洋文化も同時に押し付けるものだったと本書では書かれている。新しくキリスト教徒になったものは位牌・神棚を焼き払うように命令されていた。

そこで生まれてきたのが、日本人によるキリスト教の土着運動である。内村鑑三の無教会主義、松村介石の道会、川合信水の基督心宗教団などその数は多い。こうした土着運動は西洋の正当なキリスト教から見れば異端でありカルトな新宗教で、キリスト教と認められないようなものだ。

しかし『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』ではこうした新宗教を日本人によるキリスト教として肯定的に捉え、キリスト教を西洋を離れたグローバルな文化として見た時日本ではどのように展開したのかについてまとめている。日本のキリスト教伝道は失敗したというのが一般的な見方だが、それでも独自のやり方で自分たちのキリスト教を作り出した日本人もいたということが本書を読めばわかる。

日本のキリスト教土着運動の先駆け「無教会主義」

日本のキリスト教土着運動の先駆けで、最も有名なのが内村鑑三の無教会主義だ。1878年札幌農学校に入学した内村は先輩学生から強引な勧誘を受けてキリスト教徒になったが、ミッション教会に対する不満から内村と彼を支持する一団は札幌に独立教会を設立、制度や聖職者に頼らずにも真の信仰生活を送ることは可能であるという彼の核心的な主張はこの頃から萌芽があった。アメリカに留学、アマースト大学で学長だったシーリー博士の教えに学び、寮内で「啓示」を受け宗教的体験を得る。

帰国後プロテスタント運動は制度化され時期尚早に終焉したと主張し、宗教改革を完成させる試みとして無教会主義を始める。西洋でキリスト教を学び、プロテスタント運動を引き継ぐものとして生まれた無教会主義だが、内村鑑三は伝統的な日本文化、武士道や儒教、浄土教の阿弥陀信仰の中にもキリスト教とのつながりを見出す。

内村鑑三は学校の授業レベルで名前を覚えるが、「無教会主義」は西洋のキリスト教を日本に移植しようとしたのではなく、日本独自のキリスト教を作ろうとしたというのはあまり知られていないのではないだろうか。少なくとも自分は内村鑑三といえば最初は日清戦争に賛成していたが後非戦論者になったとか、キリスト教徒になる前はいちいち神社を見るたびお辞儀をしなければならなかったが洗礼してからは無視できるようになったとかそういう逸話を断片的に知っているだけで、宗教家としての内村鑑三は知らなかった。

その他の日本のキリスト教土着運動

無教会主義意外にも様々なキリスト教土着運動があるのだが、その特徴を自分なりに抜き出すと、西洋的なキリスト教の否定、日本の伝統文化や仏教の中にキリスト教との連続性を見出す、正統派キリスト教の教えは拒否しても聖書を否定するわけではなく独自の読み方で解釈する、准教祖(教祖はイエス・キリスト)は宗教的体験を得てカリスマ的宗教家になった、などだろうか。

聖書の独自解釈というと聞こえが悪いが、プロテスタントは聖書に立ち返るという運動から生まれたものだし、個人が一人ひとり聖書を読んで信仰について考えるという教派だから、内村鑑三がプロテスタント運動を引き継ぐものとして人の建てた教会すらいらないという無教会主義を打ち立てるのも、聖書を読んでこれって仏教と通じる真理があるなと考えて新宗教を立ち上げるのもおかしなことではない。というかそうした異端の新宗教を肯定的に見直そうというのが本書の姿勢だ。

いくつかの土着運動について記述されているのだが、主要な宗教の中心的真理は4つの基本的教義に還元できるという主張をした松村介石による道会は面白い。

天地主宰の神に対する信仰と崇拝を指す「信神」(キリスト教なら父なる神、仏教なら普遍的な真理、神道なら天之御中主神)、現世利益に煩わされずに徳の陶冶を目指す修徳(キリスト教では罪からの脱却、仏教では修行、儒教では修身)、隣人を愛し他人のために生きる「愛隣」、物理的存在を超えるものを教え来たるべき世における魂と不滅を与える「永生」。この4つが主な宗教に共通する「四綱領」の教えであるというのだが、中々それっぽいとは思いませんか。

ブッダも孔子もイエスもその説いた基本的真理は同じであり、私はその流れをくむ一人の教祖であるという松村の教えは中々普遍性があるというか同じようなことを言う新興宗教の教祖は多い。

祖先崇拝という日本の宗教ニーズ

本書では日本人の意識の底流にある民族宗教の特徴として祖先崇拝と霊魂信仰を挙げている。祖先と認められた死者への信仰とその信仰に立脚した諸儀礼、適切な儀礼を行わないと苦しむ霊の恨みによって健康問題や事業の失敗などトラブルが起きる。これが日本人が意識せずとも持っている宗教意識であり、日本人にとっての宗教的ニーズである。これは都市化によって伝統的な慣行が衰退した今でも共通しており、新興宗教はこうしたニーズに答えている。逆にいうとこのニーズに答えられない宗教は日本では浸透しないわけである。

プロテスタント宣教師の考えではキリストを信じずに死んだ者は地獄行きであり、そこに生きている人間の祈りが通じる余地はない。また宣教師は日本の伝統的な宗教から入信者を切り離そうと試み、新たな信者が宣教師の教えに従って家の仏壇や祖先の位牌や神棚を焼き払って家庭内で無数の揉め事がおこったとか。偶像破壊の教えからすれば確かに仏壇も位牌も劣った蛮族の習慣なので無理はないのだが、当然日本人の宗教意識に反した布教が広がっていくのは難しいだろう。

そこで1930年代から40年代に発達したキリスト教土着運動ではこうした祖先問題に取り組み、聖イエス会信徒では家庭祭壇に死者を祀ったり、イエス之御霊教会では祖先の代わりに洗礼を受ける身代わり洗礼を行っている。ニーズに合わせて新しいサービスが生まれる。これはビジネス業界では当たり前だが、宗教にも同じことが当てはまるらしい。

何故日韓ではキリスト教の受容に大きく差があるのか

日本ではキリスト教徒は人口の1%以下と言われているのに対して、韓国では人口の3割と宗教の中で一番のシェアを取っている。何故日本と韓国でこれほど状況が違うのかというのは大きな疑問だが、本書ではロバート・モンゴメリーという人の理論を紹介している。その理論が日本と韓国のキリスト教の状況の違いに完璧に答えを出しているのでまるごと孫引きさせてもらう。

外部からもちこまれた宗教の受容を左右する基本的な条件は、受け入れ側の集団とその他の集団との関係の質の中にある。ここでいうその他の集団には新宗教をもちこんだ集団も含まれている。関係の中でも新宗教の受容を左右する鍵となる要因は、脅威や支配がやってくる方向に関する、受けいれ側の集団の認知である。脅威と認知されていないところから宗教がもちこまれる場合、新宗教の受容には有利な条件が成立する(とはいえ、新宗教は脅威に対する抵抗手段を提供するので、そこには何らかの脅威が存在するのだが)。たとえば新宗教の出所以外のところから支配や脅威がやってくると認知された場合、新宗教は、社会を存続させる上で貢献度の高い集団や個人のアイデンティティを確立する、ひとつの手段とみなされることがある。(中略)
逆に新宗教をもちこんだ集団が、社会の存続や社会を特徴づけるアイデンティティを脅かすと認められた場合には、新宗教への抵抗を促進する条件が形成される。抵抗は状況に応じてさまざまな形態をとるだろう。伝統宗教が復活するかもしれない。伝統文化への抵抗が強い場合には、従来の文化の要素を新たな文化の要素と混ぜ合わせた、多様な宗教運動が生まれることもあるだろう。
マーク・R. マリンズ『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』P225

つまり日本では脅威となる欧米からキリスト教がもたらされたから根付かず、韓国では直接の脅威は植民地支配をしていた日本だからキリスト教が成長したというわけだ。本書によると韓国ではキリスト教が日本政府に対する抵抗イデオロギーになり、大勢のキリスト教徒が独立運動に深く関わったらしい。本当かよとなって調べてみたら、キリスト教、天道教、仏教などの宗教指導者が主導した三・一運動だったり李承晩がキリスト教徒だったり韓国の独立運動にキリスト教が関わったのは確かなようだ。

日本を責めなかった3.1独立宣言 3.1運動の中心にいたキリスト教
韓国のキリスト教はいかにして「反日感情」と結びついたか

また日本でキリスト教の土着運動が行われたように韓国でも土着化は起こり韓国キリスト教はシャーマニズムと強く結びついているらしい。「韓国」「キリスト教」「シャーマニズム」と聞くと映画『コクソン』を思い出す。あの映画は日本人が思うよりずっと強く韓国映画と結びついているのかもしれない。

*

本書は日本の土着キリスト教について書かれた本だが、それを通じて宗教にもニーズがあって需要に合わせて変化していくということがわかる。日本では本書に書かれたように新宗教が生まれたわけだが、他地域では他地域の新宗教が生まれているのだろう。日本の宗教文化について知れただけでなく、むしろ広く世界の宗教に通じる一般的法則というのがあるのかも知れない。

日本のキリスト教について知りたい人だけでなく、もっと広く文化の定着や変化について知りたい人も読む価値ある本ではないかと思う。

banka