スティーブン・キング作品は映画化されたものが多く、その評価も高いものから低いものまで様々ある。そしてこれは個人的な考えなのだが、本来キングは映画化するに向いてないタイプの作家だと思っている。
そこで、なぜキングの小説はそれだけ映画化されるのか、キングの小説の魅力はどこにあるか、そして小説を映画化するというのはどういうことかを考えるために、キングの小説と映画を比べて見ていきたい。まずは『刑務所のリタ・ヘイワース』、映画化されたタイトルは『ショーシャンクの空に』から。
原作
原作は中編で尺自体は他の長編に比べれば短いとは言え、映画に合わせるためにエピソードの整理が行われている。例えば、映画でアンディーが映写室でしゃぶらされそうになるシーンがあるが、小説では襲われた現場は映写室ではない。
リタ・ヘイワースのポスターをアンディーが注文するシーンとアンディーが襲われる話をスムーズにつなげるために、レッドが刑務所での男色行為が頻発する場所として映写室を挙げていた記述を持ってきたのだろう。
小説では看守や所長が移り変わるのが、映画ではハドリーとノートンに当位置されてるのも整理の一つ。ノートン所長がいきなり”神への冒涜は禁止”という宣告を新入りの囚人にするシーンはオリジナルだが、原作でノートン所長がまず最初にした改革――すべての囚人に新約聖書を一人一冊ずつ支給した――に対応しているといえばしている。
映画しか観ていない人は信じられないかもしれないが、老囚人ブルックスについての描写は1ページほどしかない。仮釈放前に人質を取って刑務所に居続けようとしたりしたシーンもない。彼がシャバでうまくやっていけず死を選ぶ描写はほとんどオリジナルなものだ。
映画ではアンディーたちに遺書を送るが、小説ではブルックスは貧困老人の収容所で死んだという噂をレッドが聞くだけ。しかし、ブルックスが手紙を書いたというのは原作と照らし合わせると結構重要かもしれない。
ブルックスが飼っていたカラスのジェイクは、小説ではシャーウッド・ボルトンという男が飼っていた鳩の話から移植されたもの。小説ではボルトンが出所する前日に鳩のジェイクは放されたが、一週間ぐらい後にボルトンがいつも座っていたところで飢え死にしていた。
アンディーが『フィガロの結婚』のレコードを流したシーンは映画オリジナルのもの。これは映画化するにあたってアンディーの主人公性を高めるためと(後述するが原作小説ではレッドが主人公だと思ってる)、希望というテーマについて前振りとして語っておくためだろう。
映画でアンディーは「人間の中には誰にも奪えない希望がある」と言い、レッドは希望は刑務所の中では危険だと答えるが、原作ではむしろ人間の中にある奪えないものをアンディーの中に(そして自分の中にも)見出すのはレッドだ。
あの青白い男は、自分の体の裏側に五百ドルを隠して持ち込んだが、そのほかにもこっそりなにかを持ち込んだ。それはやつ自身の値打ちだったかもしれないし、やつが最後の勝者になるという気分だったかもしれない……それとも、ひょっとしたら、このくそったれな灰色の塀の中にさえ存在する、自由な気分だったかもしれない。やつが持ち歩いているのは、一種の内なる光だった。やつがたった一度だけその光を失ったのをおれは知ってるが、それもこの物語の一部なんだ。
スティーブン・キング『ゴールデンボーイ』浅倉久志訳 P66
アンディーこそ、やつらがどうしても閉じ込められなかったおれの一部、ゲートがやっと開いて、安物の背広と、ポケットに二十ドルのへそくりを持って出ていくときに、喜びに包まれるおれの一部だ。そのおれの一部はほかのおれがどんなに年とっていても、どんなにくじけて、おびえていても、喜びに包まれるだろう。アンディーはおれよりその部分をよけいに持ちあわせていて、それをうまく使っただけのことだと思う。
スティーブン・キング『ゴールデンボーイ』浅倉久志訳 P158
これは映画としてはレッドのモノローグで語るより会話の中で触れる方が良い描写だろう。
映画では口封じに所長に殺されるトミーだが、原作小説では違う刑務所に移されるだけ。ちなみに移された先はキャッシュマン刑務所。映画で週末になると家に帰れる快適なムショだったとトミーが語っているところだ。原作ではこの待遇で所長はトミーを釣って、アンディと引き離している。これ覚えておくと、映画ではトミーは殺されるけど実は原作ではトミーが最初に話題に出してる刑務所に移されたんだぜと、ちょっとした会話の種になるからお客さんこの記事読んで得したね。
映画を見ていて唐突にアンディーがレッドにバクストンの牧草地について話すシーンがある。あそこに関係するシーンは原作小説と映画とではかなり違う。
原作ではアンディーは起訴前に親友に頼んで偽の身分証を作ってもらい、資産を投資してもらっていた。そして身分証を預けた貸金庫のカギをバクストンの牧草地の北の端、石塀の根本に置いた黒曜石のかけら(アンディーが文鎮として使っていたもの)の下に置くことを頼んだ。
映画では所長の資産を隠すために作った偽名義を利用する。不正を告発された所長が自殺を選ぶのもそれに合わせた映画オリジナル。
そして原作では仮釈放されたレッドがバクストンに向かったのはアンディーの言っていたことを確かめるため。
現実性という面で言えば映画の方が優れているが「希望は決して死なない」という言葉の重み、そして物語の神話性を考えると原作の方に長があるのではと思う。ひどく不確実な希望に向かって行動したアンディーと、希望という言葉には不正の偽名義よりも黒曜石の方が詩的で似合っているのではないか1)すいません黒曜石自体は映画でもありました。でもそれだけ原作と映画ではテイストが違うなと思ったんです……。
それにアンディーがレッドに手紙を残すためだけにバクストンの話をしたよりも、アンディーが自分にとっての希望が安置された場所にレッドへの手紙を残したという方がより震えるものがある。
忘れちゃいけないよ、レッド。希望はいいものだ、たぶんなによりもいいものだ、そして、いいものはけっして死なない。わたしは希望している。この手紙がきみを見つけることを、そして元気なきみを見つけることを。
スティーブン・キング『ゴールデンボーイ』浅倉久志訳 P167
一番違うところ。映画では青い海、そして再開するレッドとアンディーのシーンが描かれるが、原作小説では手紙を読んだレッドがシワタネホへ向かうところで終わる。
小説はレッドの書いた手記を読者が読んでいるという仕組みになっている。これがレッドを主人公たらしめている。
映画でもレッドは語り手の立場にいるが、小説ではレッドが「この事はおいおい話すことにする――」などと物語の時制や先の展開のほのめかしを操ることで作品全体を強く支配している。
原作小説のレッドが一度手記を完結させ締めの言葉を書いた後にこの物語をまたつづけることになるとは思わなかったが、いまおれはページの隅のめくれあがった、しわだらけの原稿を目の前のデスクにのせている。ここでもう三、四ページ、新しい便箋を使って書きたすつもりだ。便箋は町で買ってきた
と続きが始まるところは凄いドキュメンタリックでわくわくさせるところだ。
”語り手”と”執筆者”というのは似たようでかなり違う地位にある。キングという真の作者がいるとはいえ、レッドが就いている執筆者という立場は小説において特権的なものだ。要素を編集し、抽象化して、自分の言葉で語り直す。
実際に小説中に物語を語ることについて何回もレッドは書いている。
これまでのおれの話の大部分がまた聞きなのは、おたくらも気がついてるよな――だれかがなにかを見て、おれにそれを話し、おれがおたくらにそれを話す。場合によっては、その途中をもっと省略して、口から口へ四回も五回も伝わった情報を、さもこの目で見たように話したこともある(というか、これからもそうするだろう)。ここじゃすべてがそんなふうなんだ。
スティーブン・キング『ゴールデンボーイ』浅倉久志訳 P50
おれの話が、ひとりの人間のことなのか、それともちょうど真珠が一粒の砂のまわりに作られるように、ひとりの人間のまわりにできあがった伝説なのか、はっきり答を出せと言われたら――答はそのどこか中間にあるというしかないだろう。
スティーブン・キング『ゴールデンボーイ』浅倉久志訳 P66
なんだ、おまえは自分のことを書いてないじゃないか、と天井桟敷でだれかがいっているのが聞こえるぜ。おまえはアンディー・デュフレーンのことを書いただけだ。おまえは自分の物語の脇役でしかないってな。しかし、わかるかい、そうじゃないんだ。これはぜんぶおれのことさ、一語一語が。
スティーブン・キング『ゴールデンボーイ』浅倉久志訳 P158
ただ自分が実際に体験したことをそのまま書けば文学だと思っている小説家よりよほど小説というメディアにキングが向かい合ってるのがわかるだろう。2)キングはそんな思考などせず全部野生の勘でやってるかもしれないのが恐ろしいところだけど
この手記が便箋に書かれている以上、この作品もまた”手紙”と言えるわけだ。アンディーはレッドに手紙を残すし、映画でブルックスも手紙を書く。この作品の中で手紙は重要な意味を持つようだ。
しかしこうした仕掛けは小説というメディアならではのものなので、そのまま映画に持ち込めるものではない。映画は基本三人称の視点で登場人物を描くものだから語り手はそれだけで特別な地位を持つわけではない。
また、小説に特有の性質があれば、映画にも特有の性質がある。小説ではレッドがアンディーの手紙を読むシーンがクライマックスだが、これは映画のクライマックスに持ってくるシーンとしてはあまりに静的すぎるというのは確かだ。アンディーの脱獄成功をクライマックスに持ってくるというのは正しい判断だと思う。映画でアンディーが主人公になったのはこうした理由があってのことだろう。
媒体の特有性で言えばラストシーンもそうだ。映画で再開するレッドとアンディーを描いたのは正直原作を基準にすると無粋すぎるが、映像的に言えば青い海と白い砂浜で二人が再開するっていうのはすごい美しいシーンだから映画化したなら入れちゃおうという気持ちもわかる。
自分の基準では十分映画化に成功している作品であると感じた。完全な原作通りではないが、登場人物の個性はほぼ踏襲されているし、変えた部分もメディアの違いを考えれば納得できる範囲、そして原作の自由や希望についての書き方は損なわれない形で映画化されていると思う。原作でアンディーが作った石の彫刻はそれなりにページを割いて描写されていたので、映画でももうちょっと描写があっても良かったかもしれないが致命的な間違いかと言うとそんなことはないレベルだ。
原作ではアイリッシュだったレッドが黒人になっているのはアメリカの読者からしたらコレジャナイ要素だったんだろうか? クリント・イーストウッドやハリソン・フォード、ポール・ニューマンなども候補だったらしいが、その中からならモーガン・フリーマンが一番原作のレッド像に近いと思うのだが。
『ショーシャンクの空に』はアマゾンプライムビデオで見放題作品に入っている(2018年12月現在)。視聴してこの記事が正しいか確認しよう!