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見てから嫌え「マルセル・デュシャンと日本美術」展

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マルセル・デュシャンと日本美術展に行ってきた

 東京国立博物館で開催されている「マルセル・デュシャンと日本美術」展に行ってきた。

 デュシャンといえばそこらで売ってる便器を美術品として出品した「泉」で有名なあのデュシャンである。この人のせいで現代美術が嫌いになった、悪いイメージを持つようになったという人も多いはずだ。

 しかし今回のデュシャン展は日本でデュシャンの作品を多数まとまった形で見られるまたとない機会だ。嫌いになるのも一度作品群を見てからでは遅くない。

印象派からキュビズムそして「大ガラス」へ、デュシャンの流れをこの目で見れるし撮影もできる!

 今回の展覧会ではデュシャンの本当に初期の初期からの作品を見ることができる。

マルセル・デュシャン『ブランヴィルの教会』1902年

 少年時代の油絵だけど、モロ印象派という感じで微笑ましい。いやぁ偽名で便器を送りつける現代美術作家もこんな初心な時期があったんですね。

マルセル・デュシャン(オリジナル)、東京版監修:瀧口修造、東野芳明『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(大ガラス)東京版』オリジナル:1912~23年、複製:1980年

 難解な作品で有名な大ガラスも

マルセル・デュシャン『花嫁』1912年

 キュビズムの作品や

マルセル・デュシャン『チョコレート磨砕器 No.1』1913年

 チョコレート磨砕器を描いた油絵など大ガラスを構成するパーツごとに分けて見ると、わけのわからんガラス板から、絵画作品の一つに見えるようにってくる。

 デュシャンは芸術は目に快い刺激を与えるのではなく、思考を呼び覚ますような芸術をやろうとしていたのだが、単品で考えろと言われても手がかりがなさすぎる。デュシャンもそれを考慮したのか『グリーンボックス』という大ガラスの制作メモをまとめた作品を出版している。

マルセル・デュシャン『グリーンボックス』1934年

 大ガラスのわかんなさから比較すると後年の『泉』はわかりやすいとすら言える。自分が出資したモダンアートのフォーラムの精神を試すために、架空の作家の名前で便器に署名しただけの作品を提出したという経緯は、ああそういう意味のわからない問題を吹っかけて主人公を試す師匠のシーンって少年漫画とかによくありますよね…っと自然に受け入れてしまう自分がいた。

マルセル・デュシャン『泉』1950年(レプリカ/オリジナル1917年)

 デュシャンが制作していることを明かさずに20年以上作っていた遺作『(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ』は資料と映像による解説などと残念だったこともあるが1)といっても物理的に移動が難しいならしょうがない、デュシャンの出した謎掛けについて考えるのには十分な作品と資料があった。この展覧会はほとんどが撮影自由。スマホを便器にむけながら俺は今何をやってるんだ……と考えるのはそうそうできる体験ではない。美術を体験することに少しでも興味があるなら行っておくべき展覧会だ。嫌うのは行ってからでもできる。

第二部の日本美術との比較がおかしくねえ?

 で、今回の展覧会ではデュシャンそのものより物議を醸しているのがこの展示の第二部だ。「デュシャンの向こうに日本がみえる」とのことだが……。ハッキリ言おう。みえません! 以下パッとわかるおかしいポイントを挙げておこう。

400年前のレディメイド

利休は優れた職人が作ったものではなく傍らにある竹を切って花入れとして床に飾った。 デュシャンは大量生産された工業製品を展示室に飾って、「一点限り」の作品の価値を否定したが、利休はありふれたものから生み出される美を明確に示して、無から無限大の価値を生み出した。東京国立博物館

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| ノ  ー    |   それっておかしくねぇ?
|(・) (・)   |  だって利休の茶碗も花入れも
|  (      |    工業製品じゃねぇじゃん
ヽ O    人
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 「一点限り」の作品の価値を否定したというが、利休の茶碗も花入れも一点限りだ。ありふれたものから生み出される美という点ではほとんどの絵画はありふれた布やら紙やら絵の具やら2)珍しい鉱物で作られた絵の具はあるけどを使って生み出されている。

 レディメイドは大量生産された既成品を使うことで手仕事による一品ものの価値を否定したのだから、利休の茶碗も花入れも否定される側の存在だ。産業革命以前にレディメイドは存在しない。

日本の時間の進み方

日本の絵巻物は、独自の発展をとげました。特に「異時同図(いじどうず)」という描写方法は、同じ風景や建物のなかに、同一人物が何度も登場して、時間や物語の経過をあらわします。絵巻物をひも解き、開きながら絵を鑑賞することで、絵巻を見る人は、登場人物たちが生き生きと動き出すように感じるのです。絵巻物は、まさにアニメーションの祖先ともいえるでしょう。東京国立博物館

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| ノ  ー    |   それっておかしくねぇ?
|(・) (・)   |  異時同図法は西洋にもあるじゃん
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ヽ O    人
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マサッチオ『貢の銭』1420年代

 魚を取るペテロ→イエスに釣った魚の口から銀貨が取れるはずと教えられるペテロ→収税吏に銀貨を渡すペトロ、と異なる時間のペトロが一つの絵に表現されてますね。

オリジナルとコピー

現代では世界に唯一無二オリジナルの「一点」にこそ芸術としての価値があるものと考えられている。しかし日本のもの作りの世界は、注文主の意向に応じて制作するため、全く新たな形が生み出されることは稀であった。そこでは前例にのっとりながら、当然のように模倣コピーが行われていた。しかし同じ形が作り続けられたなかで、時代の変遷や個々の画家によって、その表現には差が生まれていく。 デュシャンはレディメイドという既成品によって、芸術の価値観を一変させたが、日本ではもとより、異なった価値観でもの作りが行われていたのである。東京国立博物館

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| ノ  ー    |   それっておかしくねぇ?
|(・) (・)   |  注文主の意向に応じて制作するのも
|  (      |    既にある作品を模倣するのも
ヽ O    人     日本だけじゃなく西洋でも当たり前のことじゃん
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 現在美術館に所蔵されている絵画も元々は教会なり貴族なりが注文して画家が制作したものばかりだし、共通するモチーフで描かれてる絵画は当然先駆作品に影響を受け、真似し、時々才能ある作家が新解釈をしてそれが広まっていく。例として「東方三博士3)エヴァの「MAGI」システムの元ネタの礼拝」を挙げてみよう。

 左から順番に、ジョット、ボッティチェリ、ベラスケス、ルーベンス、レンブラントの「東方三博士の礼拝」を主題にした絵画だが、ポーズを踏襲してることがわかるだろう。

なんでこんなわけわからん展示を……?

 当然だが東京国立博物館は美術のプロである。これらの展示はおかしいとわかってやっているだろう。ではなぜこんなことをやっているか。それはデュシャンと同じく謎掛けをしようとしているのではないか。デュシャンが『泉』でアートフォーラムを試そうとしたようにトーハクも俺たちを試そうとしているんだ! ただ単に展示を鵜呑みにするのではなく積極的に考える美術鑑賞をさせるためにわざとおかしなパネルを置いて、「それっておかしくねえ?」という思考を誘発しようとするのがこの第二部の目的に違いない!既存の芸術観念を疑ったレディメイドと同じく、美術館の展示も疑われるべき対象だと言いたいのですね!だからこの第二部は

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|    ノ  ー |    全然おかしくありませーん
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人    ワ /     ノ )_
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とでも考えなきゃやってられない。

とはいえ事件現場にはとりあえず行っておくべき

 じゃあ日本美術パートは無視して帰っていいんですかっていうとそうでもない。展示されてるもの自体は有名で、重要文化財、国宝が撮影可能な展示で出てるため見逃すのはもったいない。茶碗・花入なんて『へうげもの』読者は必見だし。

山田芳裕『へうげもの』1巻第八席

 デュシャンの存在が美術史の事件なら、このトンチンカンな展示も事件だ。事件現場にかけつけることができる時間・場所は限られている。野次馬根性を燃やして東京国立博物館に駆けつけろ!

あえて利休とデュシャンを結びつけるなら

 利休の茶碗や花入をレディメイドと結びつけるのは無理筋だが、利休とデュシャンの共通点はなくもない。

 それは「新しい美の観点を提唱した」という点だ。利休が存在する前からいびつな茶碗だったり太い竹は存在していたが、利休が「これは格好いいものだ」という美の観点を提唱したことによって、私達は「確かにこれはカッコいい……」と感じるようになった。

 デュシャンも同じように工業製品をそのまま美術品として出してもいいという観点を提唱した。もっともその観点が後世に共有されたかについては利休の方が優勢だろう。デュシャン自身、長年制作を続けていた遺作は単に既成品を置いたりちょっと描き加えたりするだけのレディメイドからかなり外れているので、本人も途中でレディメイドに飽きたのではないかとすら思えてくる。

 さらに言うなら優れた芸術品は全て受け手の世界観を変える力を持っているので、新しい観点を提唱するという点は利休とデュシャンに限った話ではない。

 ところで実は今、利休どころではなく全世界に影響を与えた美の観点の展覧会が東京で行われているのである。それは……。

脚注[+]

脚注
本文へ1 といっても物理的に移動が難しいならしょうがない
本文へ2 珍しい鉱物で作られた絵の具はあるけど
本文へ3 エヴァの「MAGI」システムの元ネタ
banka